★新館・旧館・別館の構成★
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性的、暴力的な表現を含んでいます。
虚構と現実の区別のつかない方
18歳未満の方はご遠慮くださいませ。
自己責任に於いて閲覧していただきますようお願いします。
スーツケースには大きなキャスターがついているに限る。あんまり力の強くない私は、そう思う。それに、4個ついていることは言うまでもない。後ろに引っ張る2輪式は、取り回しにコツがいり、その上荷物を詰め込むと重くなるのだ。
「1泊のお出かけなのに、なんでそんなに荷物が多くなるのか。」と、よく夫に言われる。一番の悪者はパソコンである。普段使っているノートをそ のまま持ち歩くのでこれが結構重い。着替えをもう一泊分余計に持って行きたがるのも私の悪癖である。何かアクシデントが起きて服を汚してしまったり、汗を かいて着替えたくなったり・・・そんな時のために備えてもう一組。何しろ「もしも」が、好きな人なので、綿棒からとげ抜きからビニール袋まで、普段の移動 の時でもバックの重さはピカイチである。
それから、自分専用の縄。今回は縄を習う機会があるかもしれないから、自分の縄が必要なのだ。縛られている時は全く重さを感じないのに、束にま とめて持ち歩くとこれがまたずっしりと重い。そしてスパンキングラケット、オーダーして作ってもらったお気に入りの、のたりと丸くとぐろを巻く、長くて黒 い一本鞭と短いピンクのバラ鞭。芯が無くて、先が柔らかいからあまり痛くない短い鞭。マッチ棒のような先っちょを持っているローター。
あれやこれや思いつくものを詰めているうちに、黒いキャリーバッグは、もう、パソコンを押しこむだけのスペースしか空いていない状態になる。おみやげを買うわけじゃないからまあよいだろう。ぎゅうぎゅうと詰め込んで蓋を閉めた。
家の中をぐるりと一回り。窓を閉めて、電気を消して回る。お風呂の予約をして、夫の下着の着替えを脱衣場に置いて。最後に玄関の灯りをつける。妻がいない家に帰ってくる夫が、鍵を開けるのに苦労しないように。
考えるのは自分の方向音痴の事。今日の目的地は初めて行く所だから用心のために、縮尺の大きいのやら小さいのやら、グーグルマップを何枚も印刷 して来たのだけど、ちゃんと辿り着けるかどうか分からない。最寄り駅から家に帰る時でさえしばしば迷う私だから。ほんとだったら真っ直ぐ行く道を、何も考 えずに左に曲がってしまう。左へ曲がる道は何本もあって、どれも同じように見えるし、曲がった後も同じような住宅地。だから気が付かないで迷子になってし まうのだ。
幾つかの駅で電車を乗り換えて、えっちらおっちら、キャリーバッグを抱えて、階段を昇りそしてまた降る。今、通り過ぎた駅はなんて名前だっただろう・・・。ああ、去年までは、私はこの駅で降りていたのだった。でも、もう、二度とこの駅で降りることはない。
冷房の効いた車内と違い、むっと熱い風が吹き抜ける地上の道を、ガラゴロ音を立てながら付いてくるキャリーの音を聞きながら歩く。ただひたすらガラゴロガラゴロ。
ずっとここの所、考えても益体もない繰り言を頭の中で繰り返してきたせいか、それともいつもの習性か。ただ、なんとなく。こんなにまっすぐ歩く はずはない・・・・と、いう勝手な判断に基づいて、またしても曲がるべきでないはずの道をつい右へ曲がってしまった。地図を回してみていてもなんのかいも ないのである。
入り口を入るとそこはガランとしたホールだった。置き捨てられた壊れかけた家具や、外れてしまった建具がそこかしこに立てかけてある。割れてしまったガ ラスの窓には外から板が打ち付けられていて、その隙間から細い日の光が漏れているだけなので薄暗い。足元には、たまに入り込む人達がそこここで、コンビニ の弁当を食べたのか、ビニール袋やプラスチックのトレイや潰した空き缶が散らばっていた。
病院によくあるカウンター式の受付、そしてその向こうに真っ直ぐ行く通路と右へ曲がる通路が伸びている。診療室のドアが等間隔で並んでいる。
私は落ちている物に躓かないように、足元を確かめながらそろそろと進んだ。キャリーバッグは、玄関のところに置いてきてしまった。それを引いて歩けるような床の状態じゃなかったから。
なにもないところで転ぶことが出来るのも私の才能。障害物がある時はよけいに・・・。まっすぐ伸びている通路に並ぶドアは壁と同じようなグレイ の合板のドアだった。いかにも病院の診察室。多分その向こうには机と診察用のベッドが同じようにならべられた部屋が並んでいるのだろうと想像させるよう な。突き当りの出口に小さく開けられた四角いガラス窓から外の白い光が差し込んでいる。
反対に右側はどうだろう。明かり取りになる窓もなく、並んでいるドアもそしてその向こう側も、ねっとりとその場所にうずくまっている闇の中に消えて行っている。
行きたくないのに、惹きつけられるように、私は右へ曲がってしまう。
小さい頃からの私の定番の夢はいつも同じ。
殺される夢。殺す夢。
たとえば、階段を転げ落ちて縁側のガラスに突っ込む夢。まぶたの上から血がしたたり、真っ赤になった世界の向こうから包丁を持った母がゆっくりと降りてくるのが見える。私の手首を切り取りに来る母が。
殺す夢はもっと悪い。鉈を振りかぶって打ち下ろす。何度も何度も何度も。私の心を埋め尽くすのは怒りだけ。してはいけない事をやっているのが分 かっているのに、背中を這い上がる、せり上がってくるような、締め付けるような何かに追いかけられるように。私は父の体に鉈を振り下ろす。
そして廃屋になってしまった病院の中の通路を歩いている夢。突き当たりにあるのは黒い大きな石の扉。その中に私を生きながら臼で轢き殺してくれ るあの人が待っている。顔を持たないあの人は、懐かしく、恐ろしく、そのゴツゴツと乾いた手でやさしく私の腕を引く。そうしてその大きな臼の中に私をそっ と押しやる。
私は臼の中からあの人が覗きこんでくるのを見上げる。微笑みを浮かべて嬉しそうに私を見下ろす愛しい男の顔を。そして臼の取手にかかった分厚い 手を。あの人が私の身体に、胸に、腹に静かにゆっくりと触れた時のように。容赦なくその手が臼を回すと、私はあの人を見上げたまま、ただ黙ってぽろぽろと 涙を流しながら足の先からすり潰されていくのだ。
どの夢も、痛みと苦しみとそして絞り上げられるような胸苦しさを残していく。もう二度と二度と絶対にあの扉を開けたくはないのに。私はいつもの様に右に曲がってしまう。暗い闇が広がる通路へ脚を踏み入れてしまう。自ら望んで。自ら進んで
突き当りの黒いドアを開けると、違う世界が広がっていた。ラブホテル特有の安っぽさの限りを尽くしている広い部屋大きなベッドの周りを取り囲む、幾何学模様の柄がくっきりと刻まれた壁。二人並んで座るソファの上に、とぐろを巻くいつもの鞭。
ソファの前のテーブルの上に広げられたパソコン。脱ぎ捨てた服は、たたまれてソファの背中にかけられている。彼のスーツはきちんとハンガーに掛けて吊るされている散らかっているものを無意識に拾ってしまう私せめてもの慰めのように並べてしまう私。
ベッドの上に居るのは私に違いない。
私は、セックスで喜びを感じた事がない。気持ちよさは、いつも、掴みどころがなく、ただ体の中をたゆたい。指の先まで拡がっては、身体の中心へ戻っていくだけ。そんな私の身体を、私の上に仁王立ちになっている男は、短いゴムの鞭でところかまわず打っていた。
その鞭は、自転車のタイヤのチューブに使うゴム板を2センチほどの幅に切ってあるゴムで出来ている。ホームセンターへ行くと一束280円で売られてい る。トラックの荷台の荷物が落ちないようにかけるためのゴムだ。そのゴムを適当な長さでくるくると巻き、一箇所をパンの袋の口を縛ってあるようなビニタイ でまとめて止め。もう一度そのビニタイで、止められた場所を二つ折りにして巻いてあるだけの鞭である。
そして、この鞭は、音があまりしない。多分バラ鞭のような構造になってはいても、短くくるくると巻かれているせいなのだろう。その代わり外すこ ともない。自分の手の延長線のように振った所へそのまま打ち付けられる。肉を打つバチッという音が弾けると、表皮の上を熱くて鋭い痛みが、ぱあっと拡がる 重さはないので、奥までは届かないが、続け様に打っていると重なっていく広がる痛みが共鳴しあうのが分かる。
私はその鞭の一振り一振りに、身体を跳ねさせながら、小さな悲鳴を上げながら、ベッドマットにしがみつくように爪を立てていた。背中にもお尻にも交差し肌を埋め尽くす痕が浮き上がっている。
「上を向け。仰向けになるんだ。」
男は冷たく言い放つ。私は、一言もなく、ただ上がっている息をつきながら身体を反転させた。手首の一つでも縛ってもらっていたらもっと違った展 開になっていたかもしれない男は。私を拘束するのを面倒がった。縛られた女は自分では動けない。それがまた面倒なのかもしれない。
仰向けになれば打つ場所は決まっている。横に流れて力ない胸と醜く段をつけた白いうねる腹と。彼は、ただ黙々と私の身体の上に腕を振り下ろす。さんざん打ち尽くされて、しびれるような熱さになっていた背中とは全く違う。新しい皮膚に新しい痛み。
歯を食いしばっても、声が漏れる。痛みが身体に刻み込まれていく。身体を捻り、悶えさせている私の足が緩んだ。
すると男は、その足の間の一度も打たれたことがない場所をめがけて鞭を振り下ろした。
叫び声を上げたことすら気が付かなかった。身体を縮め、熱く焼けるような痛みが拡がって消えて行くのをただ待っているだけしかできない。子供のように小さくなって、丸く小さなひとつの珠になって。消えてしまえたらどんなにかいいのに。
「ほら、足を開くんだよ。」
男は、自分の足でもどかしげに私の足を蹴り広げた。恐ろしさのせいで恥ずかしさなんて意識する暇もなかった。
「いや、痛い。」
なんとか足を閉じようとしても、膝の内側に入った男の足が容赦なく足を押さえつけている。
「ここ、打つぞ。」
「や・・・」
「何回我慢できる?」
男の中では、その柔らかい粘膜を再び打ち据える事は、すでに決まった事のようだった。
「何度だ?」
「じゅっ・・・五回。」
「十回だ。」
「やだっ・・五回・・。」
「十回だ。ほら、足を拡げないか。自分で数えるんだぞ。」
私は、魅入られたように震えながら足を開いた。少しずつためらいながら。男の足がその間に入り、閉じられないようにこじ入れられた。ヒュッ・・・。黒いゴムの塊が落ちてくるのが見える。私は、思わず目を瞑る。
ビュッ!!
焼け付くような痛みというのをご存知だろうか。日頃感じることのない、破裂するような衝撃による痛み。一瞬で弾けて皮膚の上を焼き尽くしていく。
「あああああっ!」
叫んだ時に吐き出した息を大急ぎでもう一度吸い込み、自らの身体を硬くしてその痛みをやり過ごそうとした。ドット汗が噴き出してくる。
「い、一回・・・。」
その痛みが治まらないうちに、次の鞭が噛み付いてきた。私は、のけぞって、その痛みを受け止める。
「ひぃやっ・・・二回・・・・。」
部屋の壁を意識していた感覚がどんどん薄れて、部屋が拡がっていく・・。闇が拡がっていく。外側に広がる意識と、身体の奥に縮んでいく想い。そ の間を切り裂く純粋な痛みに私は身体をのたうたせる。6回目を数えた頃だろうか、鞭と鞭の間隔途切れて、私は、目を開けることが出来た。逃げる事を許さな いかのように立ちふさがる男の身体。そして、見降ろしてくる何もかも受け入れてくれる優しい目。そして、珍しく勃ちあがったその身体から、先走りの滴が私 の上に滴った。
興奮している。
私を打って。この人は興奮している。私が悲鳴をあげ、痛みにもがき、その身体に浮かび上がる赤い縞模様を見て興奮している。白い闇が外側から縮 んできて世界を埋め尽くした。なにもかもが、今日のこの瞬間のために会ったような気がして、私は涙を吹きこぼして泣きながら叫んだ。
「じゅっ・・かー・・い。」
満ち足りた。完成した。許された。贖罪は果たされた。
気がつくと、私は古いビルが作る日陰に、キャリーバックを椅子にして座っていた。辺りを見回しても、さっき入っていたはずの廃屋の病院は見つからない。 何度も繰り返した、眠れない夜を埋め尽くした夢。恐ろしさに震えながら、汗びっしょりの身体を、どこもタオルケットの下から出ないように必死に身を縮めて いた。誰かが、その浮いたタオルの下にある私の足を掴むような気がして。
あの病院は、私の夢のなかだけにある。
汗が引くまで、ぼんやりと、アスファルトの上に日差しが作った影が動いていくのを眺めていた。少しずつ拡がり、なにもかもをその影のうちに取り 込んでいく。あの人の闇からもう私は解き放たれてしまった。もうあの人は、あの駅のマンションには住んでいない。もう私は、あの夢を懐かしむことはない。
終わったのだから。
弾みをつけて立ち上がると、腕時計を見た。大幅に遅刻してしまいそうな気がして、慌てて携帯を取り出す。「ただいま駅から歩いている途中なり。 お損なってごめん。」携帯を閉じると、ガラゴロと音を立てて重い荷物を引きながら、私はまた歩き出す。曲がるはずがなかったまっすぐな道へ戻るために。目 的地に辿り着くために。
そういえば、今日は、あのゴム鞭は置いてきてしまった。
「1泊のお出かけなのに、なんでそんなに荷物が多くなるのか。」と、よく夫に言われる。一番の悪者はパソコンである。普段使っているノートをそ のまま持ち歩くのでこれが結構重い。着替えをもう一泊分余計に持って行きたがるのも私の悪癖である。何かアクシデントが起きて服を汚してしまったり、汗を かいて着替えたくなったり・・・そんな時のために備えてもう一組。何しろ「もしも」が、好きな人なので、綿棒からとげ抜きからビニール袋まで、普段の移動 の時でもバックの重さはピカイチである。
それから、自分専用の縄。今回は縄を習う機会があるかもしれないから、自分の縄が必要なのだ。縛られている時は全く重さを感じないのに、束にま とめて持ち歩くとこれがまたずっしりと重い。そしてスパンキングラケット、オーダーして作ってもらったお気に入りの、のたりと丸くとぐろを巻く、長くて黒 い一本鞭と短いピンクのバラ鞭。芯が無くて、先が柔らかいからあまり痛くない短い鞭。マッチ棒のような先っちょを持っているローター。
あれやこれや思いつくものを詰めているうちに、黒いキャリーバッグは、もう、パソコンを押しこむだけのスペースしか空いていない状態になる。おみやげを買うわけじゃないからまあよいだろう。ぎゅうぎゅうと詰め込んで蓋を閉めた。
家の中をぐるりと一回り。窓を閉めて、電気を消して回る。お風呂の予約をして、夫の下着の着替えを脱衣場に置いて。最後に玄関の灯りをつける。妻がいない家に帰ってくる夫が、鍵を開けるのに苦労しないように。
考えるのは自分の方向音痴の事。今日の目的地は初めて行く所だから用心のために、縮尺の大きいのやら小さいのやら、グーグルマップを何枚も印刷 して来たのだけど、ちゃんと辿り着けるかどうか分からない。最寄り駅から家に帰る時でさえしばしば迷う私だから。ほんとだったら真っ直ぐ行く道を、何も考 えずに左に曲がってしまう。左へ曲がる道は何本もあって、どれも同じように見えるし、曲がった後も同じような住宅地。だから気が付かないで迷子になってし まうのだ。
幾つかの駅で電車を乗り換えて、えっちらおっちら、キャリーバッグを抱えて、階段を昇りそしてまた降る。今、通り過ぎた駅はなんて名前だっただろう・・・。ああ、去年までは、私はこの駅で降りていたのだった。でも、もう、二度とこの駅で降りることはない。
冷房の効いた車内と違い、むっと熱い風が吹き抜ける地上の道を、ガラゴロ音を立てながら付いてくるキャリーの音を聞きながら歩く。ただひたすらガラゴロガラゴロ。
ずっとここの所、考えても益体もない繰り言を頭の中で繰り返してきたせいか、それともいつもの習性か。ただ、なんとなく。こんなにまっすぐ歩く はずはない・・・・と、いう勝手な判断に基づいて、またしても曲がるべきでないはずの道をつい右へ曲がってしまった。地図を回してみていてもなんのかいも ないのである。
入り口を入るとそこはガランとしたホールだった。置き捨てられた壊れかけた家具や、外れてしまった建具がそこかしこに立てかけてある。割れてしまったガ ラスの窓には外から板が打ち付けられていて、その隙間から細い日の光が漏れているだけなので薄暗い。足元には、たまに入り込む人達がそこここで、コンビニ の弁当を食べたのか、ビニール袋やプラスチックのトレイや潰した空き缶が散らばっていた。
病院によくあるカウンター式の受付、そしてその向こうに真っ直ぐ行く通路と右へ曲がる通路が伸びている。診療室のドアが等間隔で並んでいる。
私は落ちている物に躓かないように、足元を確かめながらそろそろと進んだ。キャリーバッグは、玄関のところに置いてきてしまった。それを引いて歩けるような床の状態じゃなかったから。
なにもないところで転ぶことが出来るのも私の才能。障害物がある時はよけいに・・・。まっすぐ伸びている通路に並ぶドアは壁と同じようなグレイ の合板のドアだった。いかにも病院の診察室。多分その向こうには机と診察用のベッドが同じようにならべられた部屋が並んでいるのだろうと想像させるよう な。突き当りの出口に小さく開けられた四角いガラス窓から外の白い光が差し込んでいる。
反対に右側はどうだろう。明かり取りになる窓もなく、並んでいるドアもそしてその向こう側も、ねっとりとその場所にうずくまっている闇の中に消えて行っている。
行きたくないのに、惹きつけられるように、私は右へ曲がってしまう。
小さい頃からの私の定番の夢はいつも同じ。
殺される夢。殺す夢。
たとえば、階段を転げ落ちて縁側のガラスに突っ込む夢。まぶたの上から血がしたたり、真っ赤になった世界の向こうから包丁を持った母がゆっくりと降りてくるのが見える。私の手首を切り取りに来る母が。
殺す夢はもっと悪い。鉈を振りかぶって打ち下ろす。何度も何度も何度も。私の心を埋め尽くすのは怒りだけ。してはいけない事をやっているのが分 かっているのに、背中を這い上がる、せり上がってくるような、締め付けるような何かに追いかけられるように。私は父の体に鉈を振り下ろす。
そして廃屋になってしまった病院の中の通路を歩いている夢。突き当たりにあるのは黒い大きな石の扉。その中に私を生きながら臼で轢き殺してくれ るあの人が待っている。顔を持たないあの人は、懐かしく、恐ろしく、そのゴツゴツと乾いた手でやさしく私の腕を引く。そうしてその大きな臼の中に私をそっ と押しやる。
私は臼の中からあの人が覗きこんでくるのを見上げる。微笑みを浮かべて嬉しそうに私を見下ろす愛しい男の顔を。そして臼の取手にかかった分厚い 手を。あの人が私の身体に、胸に、腹に静かにゆっくりと触れた時のように。容赦なくその手が臼を回すと、私はあの人を見上げたまま、ただ黙ってぽろぽろと 涙を流しながら足の先からすり潰されていくのだ。
どの夢も、痛みと苦しみとそして絞り上げられるような胸苦しさを残していく。もう二度と二度と絶対にあの扉を開けたくはないのに。私はいつもの様に右に曲がってしまう。暗い闇が広がる通路へ脚を踏み入れてしまう。自ら望んで。自ら進んで
突き当りの黒いドアを開けると、違う世界が広がっていた。ラブホテル特有の安っぽさの限りを尽くしている広い部屋大きなベッドの周りを取り囲む、幾何学模様の柄がくっきりと刻まれた壁。二人並んで座るソファの上に、とぐろを巻くいつもの鞭。
ソファの前のテーブルの上に広げられたパソコン。脱ぎ捨てた服は、たたまれてソファの背中にかけられている。彼のスーツはきちんとハンガーに掛けて吊るされている散らかっているものを無意識に拾ってしまう私せめてもの慰めのように並べてしまう私。
ベッドの上に居るのは私に違いない。
私は、セックスで喜びを感じた事がない。気持ちよさは、いつも、掴みどころがなく、ただ体の中をたゆたい。指の先まで拡がっては、身体の中心へ戻っていくだけ。そんな私の身体を、私の上に仁王立ちになっている男は、短いゴムの鞭でところかまわず打っていた。
その鞭は、自転車のタイヤのチューブに使うゴム板を2センチほどの幅に切ってあるゴムで出来ている。ホームセンターへ行くと一束280円で売られてい る。トラックの荷台の荷物が落ちないようにかけるためのゴムだ。そのゴムを適当な長さでくるくると巻き、一箇所をパンの袋の口を縛ってあるようなビニタイ でまとめて止め。もう一度そのビニタイで、止められた場所を二つ折りにして巻いてあるだけの鞭である。
そして、この鞭は、音があまりしない。多分バラ鞭のような構造になってはいても、短くくるくると巻かれているせいなのだろう。その代わり外すこ ともない。自分の手の延長線のように振った所へそのまま打ち付けられる。肉を打つバチッという音が弾けると、表皮の上を熱くて鋭い痛みが、ぱあっと拡がる 重さはないので、奥までは届かないが、続け様に打っていると重なっていく広がる痛みが共鳴しあうのが分かる。
私はその鞭の一振り一振りに、身体を跳ねさせながら、小さな悲鳴を上げながら、ベッドマットにしがみつくように爪を立てていた。背中にもお尻にも交差し肌を埋め尽くす痕が浮き上がっている。
「上を向け。仰向けになるんだ。」
男は冷たく言い放つ。私は、一言もなく、ただ上がっている息をつきながら身体を反転させた。手首の一つでも縛ってもらっていたらもっと違った展 開になっていたかもしれない男は。私を拘束するのを面倒がった。縛られた女は自分では動けない。それがまた面倒なのかもしれない。
仰向けになれば打つ場所は決まっている。横に流れて力ない胸と醜く段をつけた白いうねる腹と。彼は、ただ黙々と私の身体の上に腕を振り下ろす。さんざん打ち尽くされて、しびれるような熱さになっていた背中とは全く違う。新しい皮膚に新しい痛み。
歯を食いしばっても、声が漏れる。痛みが身体に刻み込まれていく。身体を捻り、悶えさせている私の足が緩んだ。
すると男は、その足の間の一度も打たれたことがない場所をめがけて鞭を振り下ろした。
叫び声を上げたことすら気が付かなかった。身体を縮め、熱く焼けるような痛みが拡がって消えて行くのをただ待っているだけしかできない。子供のように小さくなって、丸く小さなひとつの珠になって。消えてしまえたらどんなにかいいのに。
「ほら、足を開くんだよ。」
男は、自分の足でもどかしげに私の足を蹴り広げた。恐ろしさのせいで恥ずかしさなんて意識する暇もなかった。
「いや、痛い。」
なんとか足を閉じようとしても、膝の内側に入った男の足が容赦なく足を押さえつけている。
「ここ、打つぞ。」
「や・・・」
「何回我慢できる?」
男の中では、その柔らかい粘膜を再び打ち据える事は、すでに決まった事のようだった。
「何度だ?」
「じゅっ・・・五回。」
「十回だ。」
「やだっ・・五回・・。」
「十回だ。ほら、足を拡げないか。自分で数えるんだぞ。」
私は、魅入られたように震えながら足を開いた。少しずつためらいながら。男の足がその間に入り、閉じられないようにこじ入れられた。ヒュッ・・・。黒いゴムの塊が落ちてくるのが見える。私は、思わず目を瞑る。
ビュッ!!
焼け付くような痛みというのをご存知だろうか。日頃感じることのない、破裂するような衝撃による痛み。一瞬で弾けて皮膚の上を焼き尽くしていく。
「あああああっ!」
叫んだ時に吐き出した息を大急ぎでもう一度吸い込み、自らの身体を硬くしてその痛みをやり過ごそうとした。ドット汗が噴き出してくる。
「い、一回・・・。」
その痛みが治まらないうちに、次の鞭が噛み付いてきた。私は、のけぞって、その痛みを受け止める。
「ひぃやっ・・・二回・・・・。」
部屋の壁を意識していた感覚がどんどん薄れて、部屋が拡がっていく・・。闇が拡がっていく。外側に広がる意識と、身体の奥に縮んでいく想い。そ の間を切り裂く純粋な痛みに私は身体をのたうたせる。6回目を数えた頃だろうか、鞭と鞭の間隔途切れて、私は、目を開けることが出来た。逃げる事を許さな いかのように立ちふさがる男の身体。そして、見降ろしてくる何もかも受け入れてくれる優しい目。そして、珍しく勃ちあがったその身体から、先走りの滴が私 の上に滴った。
興奮している。
私を打って。この人は興奮している。私が悲鳴をあげ、痛みにもがき、その身体に浮かび上がる赤い縞模様を見て興奮している。白い闇が外側から縮 んできて世界を埋め尽くした。なにもかもが、今日のこの瞬間のために会ったような気がして、私は涙を吹きこぼして泣きながら叫んだ。
「じゅっ・・かー・・い。」
満ち足りた。完成した。許された。贖罪は果たされた。
気がつくと、私は古いビルが作る日陰に、キャリーバックを椅子にして座っていた。辺りを見回しても、さっき入っていたはずの廃屋の病院は見つからない。 何度も繰り返した、眠れない夜を埋め尽くした夢。恐ろしさに震えながら、汗びっしょりの身体を、どこもタオルケットの下から出ないように必死に身を縮めて いた。誰かが、その浮いたタオルの下にある私の足を掴むような気がして。
あの病院は、私の夢のなかだけにある。
汗が引くまで、ぼんやりと、アスファルトの上に日差しが作った影が動いていくのを眺めていた。少しずつ拡がり、なにもかもをその影のうちに取り 込んでいく。あの人の闇からもう私は解き放たれてしまった。もうあの人は、あの駅のマンションには住んでいない。もう私は、あの夢を懐かしむことはない。
終わったのだから。
弾みをつけて立ち上がると、腕時計を見た。大幅に遅刻してしまいそうな気がして、慌てて携帯を取り出す。「ただいま駅から歩いている途中なり。 お損なってごめん。」携帯を閉じると、ガラゴロと音を立てて重い荷物を引きながら、私はまた歩き出す。曲がるはずがなかったまっすぐな道へ戻るために。目 的地に辿り着くために。
そういえば、今日は、あのゴム鞭は置いてきてしまった。

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水樹は、向かい側に座った男が何気なく肘を付いている喫茶店のガラステーブルの上を見つめていた。男の肘が置かれた位置から、じわじわと何かが滲み出てきている。濁った灰色と毒々しい赤が交じり合っているような液体は、見つめていても分からないぐらいの速さで、茶色のガラスの上に拡がり始めていた。
周囲の景色が歪んで写っている液体の縁の盛り上がりは、男の指紋や手の脂がベタベタとついているガラステーブルの上で、ゆっくりと、確実に領土を拡げて行っている。
水樹の背筋を冷たい汗がつたい降りる。じっとりと汗をかいているのに、汗に覆われた水樹の身体は冷たかった。嫌悪に、ぞっと髪の毛が坂だったような気がして、水樹は、必死に視線をそらし、見慣れたいつもの窓の外を見ようとしたが、捉えられた風景は黄色いタオルが干されていることぐらいで、目を逸らしながらも、その物質が伸び拡がっていくのを横目で確認せずにはいられなかった。
恐怖を押さえつけて、その液体に触れた日もあった。ぬちゃああ・・と粘り、糸を引いて自分の指を男の肌と繋いだものが、自分の身体をの上に這い広がっていく感覚に、「どうした?」と尋ねる男の不審な目も構わずに、必死に手を振り払い、洗面所に駆け込んだのを覚えている。
気が狂ったように石鹸に手をこすり続け、便座に顔を突っ込み吐いた。何度もレバーを引いて、渦を巻いて流れていく水に、自分の思いも流してしまいたいと願った。
水樹が「相手の身体から滲み出てくる何か」を見るようになったのは、去年、近道のために通った公園の裏道で、男に植え込みの影に引き倒されて乱暴された時からだった。殴り飛ばされた頬は骨折し、唇は大きく切れていた。腫れ上がった顔も、息をする度に痛む肋骨も、紫色に変色した痣だらけの身体も、自分のものと信じられず、汚らしさに身がすくんだ。
人の身体が、何かに触れているその場所から滲みだしてくる粘液。最初は、混乱した水樹の心は、自分が目にしているものを受け入れられなかった。目の錯覚と自らに言い聞かせ、やがて、幻覚を見ているのだと考えた。でも、どうやっても、それはそこにあり、その現象も消えてはくれなかった。
医者も、看護婦も、家族も、「かわいそうに」を、顔にはりつけて、ぎこちなく笑いかけて来た。診察しようと手を伸ばしてくる医者の指の先からも、それが滲み出ていて、自分の肌に押し付けたまま少しでも時間が経過すると、それが私の体に塗りつけられるような気がして、すくみあがった。
触れていた身体が離れていくと、その場所に「それ」は、残る。時間が経つとやがて蒸発し、触ると、甘ったるいジュースをこぼしてそのまま乾いた後のような、肌が張り付くような感覚の染みになった。粘着テープを触った時のような。そして、かすかな腐臭が残る。水樹は、周囲が困惑するほどの潔癖症になって、自分の周囲をアルコール除菌のウェットティッシュで拭きまわるようになってしまった。その行為は、周囲の「かわいそうに」を、増殖させ、水樹は、いつもそれを意識して生きるようになった。
その液体は人によって色も、粘度も、匂いも違っていた。おそらく味も違うのだろうけど、そんなことを試せるほどの度胸はない。ただ、ひたすら「消えて」と、願い続けるしかなかった。この現象も、その粘液も、そんなものを引き起こした事実も。
犯人はまだ捕まっていない。
もしも、自分が、大好きで、大好きで、いつもその姿を目で追い、いくら見つめていても見飽きることもなく、そばに寄るだけで胸が暖かくなり、微笑みを向けられれば、嬉しさで胸が張り裂けそうになるような人がいたら、どんなになっていたのだろうか。
その人の、肌からも、それは、滲み出てくるのだろうか。どんな色、どんな匂いがするのだろう。もし、その人に抱きしめられたら、お互いの肌がくっついた場所から、それは滲み出てくるのだろうか。それでも、私は相手の腕の中で、うっとりとしていられるのだろうか。
恐ろしいのは、自分では自分のそれを見る事が出来ないのだけれど、相手が、それを見る事が出来る人だったらどうなるのだろう・・・と、いうことだった。相手に触れる喜びに熱くなった自分の毛穴が一斉に開いた時、そこから濁った汚水が滴り落ちていたら、どうすればいいのだろう。美しい相手の身体の、透き通ってさらさらとしたそれと、自分のぬちゃぬちゃぬるぬると相手を絡め取ろうとする粘液が、大好きな人の肌の上で交じり合い、身体を動かす度にきたならしい音をたてるとしたら・・・水樹には到底耐えられそうになかった。
多分、多分だけれど。この粘液は、相手の考えや、気持ちや、今までしてきた行いや、積み重ねてきた罪が作り出すのではないだろうか。美しい人は美しい花の密蜜のような粘液をしたたらせ、人の心を絡めとり、甘く酔わせることができるのだ。
けれど、どう考えても、自分の身体からそんな美しいものが出てるとは思えなかった。水樹の周囲には、そんな人は一人もいない。水樹が惹かれる相手も、いままでも、これからも、現れはしない。水樹にはそんな未来が許されているはずがない。大好きな相手に、自分の考えてる事を、自分の感じてる事を、自分の辿ってきた生き様を見せるなんて耐え切れない。
今、正面に座っているのは、血の繋がった水樹の父親である。母を殴って、足蹴にし、骨折させて離婚することになった後、父の権利なのか、子の権利なのか、一年に一度だけ、面会する事を許されている。
水樹は、彼を、悪い父だったとは思っていなかった。小さい頃は、手をつないで、川べりを散歩したり、肩車をしてもらったりしたこともあった。よく、一緒にお風呂に入って、身体を洗ってもらった。同じ布団に入って眠り、眠りにつくまで身体を撫でてもらったこともあった。
その向けられる笑顔が、鬼のようだと思ったのは、夢だったのだろうか。現だったのだろうか。
「水樹、怪我の具合はどうなんだい?顔が思ってたよりも、綺麗に治って、お父さん、ほっとしたよ。」
男の手が無造作に伸ばされて水樹の手に軽く触れた。水樹の肩がびくっと跳ね上がる。その瞬間、塞がれていた記憶に、切れ目が入り、次々と自分が襲われた暴力が蘇ってきた。まるで、普通の光景をぶった切って、雷が落ちてきたようだった。
あの、眼の裏が真っ黒になり、火花が散って、何一つ考えることができなくなった時間。自分の顔を殴りつけ、倒れた所を、足首を掴んで、低く茂った木の間を、乱暴に、身体中に樹の枝で引っ掻き傷ができてしまうのも頓着無く引きずった。泣いているような、しゃくりあげるような罵声・・・それは確かに・・・父親だったのだ。
こうして向かい合って座り、男の鬼の様な微笑みを見て、どこか棒読みの語りかけてくる声を聞きながら、鮮烈に戻ってくる記憶と、だんだんと世界が大きく広がり、自分が小さく縮んでいく感覚の中で、両手の握りしめた拳をテーブルに押し付けながら、水樹は、ただ小さく震えていた。
あの拡がり続ける粘液に飲み込まれる前に、男の腕に捕まって、また、痛い目にあわされ、身体から出る粘液を自分の下腹に擦り付けられる前に・・・戻ってきたこの記憶を消せたら・・・。それが出来ないのなら、このテーブルをひっくり返し、逃げ出したい。水の中を掻き分けて進むときのように、スローモーションで、もがき出る自分の姿が、瞼に浮かぶ。
小さい箱の中に、自分の記憶を押し込め、二度と開かない重石を乗せようと、じたばたと水樹はもがいた。その間も、あの粘液はゆっくりと移動し、彼女のテーブルに押し付けた手の方へ、じわじわと近づいていた。
周囲の景色が歪んで写っている液体の縁の盛り上がりは、男の指紋や手の脂がベタベタとついているガラステーブルの上で、ゆっくりと、確実に領土を拡げて行っている。
水樹の背筋を冷たい汗がつたい降りる。じっとりと汗をかいているのに、汗に覆われた水樹の身体は冷たかった。嫌悪に、ぞっと髪の毛が坂だったような気がして、水樹は、必死に視線をそらし、見慣れたいつもの窓の外を見ようとしたが、捉えられた風景は黄色いタオルが干されていることぐらいで、目を逸らしながらも、その物質が伸び拡がっていくのを横目で確認せずにはいられなかった。
恐怖を押さえつけて、その液体に触れた日もあった。ぬちゃああ・・と粘り、糸を引いて自分の指を男の肌と繋いだものが、自分の身体をの上に這い広がっていく感覚に、「どうした?」と尋ねる男の不審な目も構わずに、必死に手を振り払い、洗面所に駆け込んだのを覚えている。
気が狂ったように石鹸に手をこすり続け、便座に顔を突っ込み吐いた。何度もレバーを引いて、渦を巻いて流れていく水に、自分の思いも流してしまいたいと願った。
水樹が「相手の身体から滲み出てくる何か」を見るようになったのは、去年、近道のために通った公園の裏道で、男に植え込みの影に引き倒されて乱暴された時からだった。殴り飛ばされた頬は骨折し、唇は大きく切れていた。腫れ上がった顔も、息をする度に痛む肋骨も、紫色に変色した痣だらけの身体も、自分のものと信じられず、汚らしさに身がすくんだ。
人の身体が、何かに触れているその場所から滲みだしてくる粘液。最初は、混乱した水樹の心は、自分が目にしているものを受け入れられなかった。目の錯覚と自らに言い聞かせ、やがて、幻覚を見ているのだと考えた。でも、どうやっても、それはそこにあり、その現象も消えてはくれなかった。
医者も、看護婦も、家族も、「かわいそうに」を、顔にはりつけて、ぎこちなく笑いかけて来た。診察しようと手を伸ばしてくる医者の指の先からも、それが滲み出ていて、自分の肌に押し付けたまま少しでも時間が経過すると、それが私の体に塗りつけられるような気がして、すくみあがった。
触れていた身体が離れていくと、その場所に「それ」は、残る。時間が経つとやがて蒸発し、触ると、甘ったるいジュースをこぼしてそのまま乾いた後のような、肌が張り付くような感覚の染みになった。粘着テープを触った時のような。そして、かすかな腐臭が残る。水樹は、周囲が困惑するほどの潔癖症になって、自分の周囲をアルコール除菌のウェットティッシュで拭きまわるようになってしまった。その行為は、周囲の「かわいそうに」を、増殖させ、水樹は、いつもそれを意識して生きるようになった。
その液体は人によって色も、粘度も、匂いも違っていた。おそらく味も違うのだろうけど、そんなことを試せるほどの度胸はない。ただ、ひたすら「消えて」と、願い続けるしかなかった。この現象も、その粘液も、そんなものを引き起こした事実も。
犯人はまだ捕まっていない。
もしも、自分が、大好きで、大好きで、いつもその姿を目で追い、いくら見つめていても見飽きることもなく、そばに寄るだけで胸が暖かくなり、微笑みを向けられれば、嬉しさで胸が張り裂けそうになるような人がいたら、どんなになっていたのだろうか。
その人の、肌からも、それは、滲み出てくるのだろうか。どんな色、どんな匂いがするのだろう。もし、その人に抱きしめられたら、お互いの肌がくっついた場所から、それは滲み出てくるのだろうか。それでも、私は相手の腕の中で、うっとりとしていられるのだろうか。
恐ろしいのは、自分では自分のそれを見る事が出来ないのだけれど、相手が、それを見る事が出来る人だったらどうなるのだろう・・・と、いうことだった。相手に触れる喜びに熱くなった自分の毛穴が一斉に開いた時、そこから濁った汚水が滴り落ちていたら、どうすればいいのだろう。美しい相手の身体の、透き通ってさらさらとしたそれと、自分のぬちゃぬちゃぬるぬると相手を絡め取ろうとする粘液が、大好きな人の肌の上で交じり合い、身体を動かす度にきたならしい音をたてるとしたら・・・水樹には到底耐えられそうになかった。
多分、多分だけれど。この粘液は、相手の考えや、気持ちや、今までしてきた行いや、積み重ねてきた罪が作り出すのではないだろうか。美しい人は美しい花の密蜜のような粘液をしたたらせ、人の心を絡めとり、甘く酔わせることができるのだ。
けれど、どう考えても、自分の身体からそんな美しいものが出てるとは思えなかった。水樹の周囲には、そんな人は一人もいない。水樹が惹かれる相手も、いままでも、これからも、現れはしない。水樹にはそんな未来が許されているはずがない。大好きな相手に、自分の考えてる事を、自分の感じてる事を、自分の辿ってきた生き様を見せるなんて耐え切れない。
今、正面に座っているのは、血の繋がった水樹の父親である。母を殴って、足蹴にし、骨折させて離婚することになった後、父の権利なのか、子の権利なのか、一年に一度だけ、面会する事を許されている。
水樹は、彼を、悪い父だったとは思っていなかった。小さい頃は、手をつないで、川べりを散歩したり、肩車をしてもらったりしたこともあった。よく、一緒にお風呂に入って、身体を洗ってもらった。同じ布団に入って眠り、眠りにつくまで身体を撫でてもらったこともあった。
その向けられる笑顔が、鬼のようだと思ったのは、夢だったのだろうか。現だったのだろうか。
「水樹、怪我の具合はどうなんだい?顔が思ってたよりも、綺麗に治って、お父さん、ほっとしたよ。」
男の手が無造作に伸ばされて水樹の手に軽く触れた。水樹の肩がびくっと跳ね上がる。その瞬間、塞がれていた記憶に、切れ目が入り、次々と自分が襲われた暴力が蘇ってきた。まるで、普通の光景をぶった切って、雷が落ちてきたようだった。
あの、眼の裏が真っ黒になり、火花が散って、何一つ考えることができなくなった時間。自分の顔を殴りつけ、倒れた所を、足首を掴んで、低く茂った木の間を、乱暴に、身体中に樹の枝で引っ掻き傷ができてしまうのも頓着無く引きずった。泣いているような、しゃくりあげるような罵声・・・それは確かに・・・父親だったのだ。
こうして向かい合って座り、男の鬼の様な微笑みを見て、どこか棒読みの語りかけてくる声を聞きながら、鮮烈に戻ってくる記憶と、だんだんと世界が大きく広がり、自分が小さく縮んでいく感覚の中で、両手の握りしめた拳をテーブルに押し付けながら、水樹は、ただ小さく震えていた。
あの拡がり続ける粘液に飲み込まれる前に、男の腕に捕まって、また、痛い目にあわされ、身体から出る粘液を自分の下腹に擦り付けられる前に・・・戻ってきたこの記憶を消せたら・・・。それが出来ないのなら、このテーブルをひっくり返し、逃げ出したい。水の中を掻き分けて進むときのように、スローモーションで、もがき出る自分の姿が、瞼に浮かぶ。
小さい箱の中に、自分の記憶を押し込め、二度と開かない重石を乗せようと、じたばたと水樹はもがいた。その間も、あの粘液はゆっくりと移動し、彼女のテーブルに押し付けた手の方へ、じわじわと近づいていた。
「あーん、どうしよう。どうしたらいいの?」
佐久間みゆきは、低いテーブルの上に並べられた三本のパドルを前に焦りまくっていた。
パドルとは、お尻を叩くためのしゃもじのような道具のことを言う。たいていはしゃもじよりも、もっと凶暴な働きをするのだが、少なくとも形はそうだ。原型はボートを漕ぐ道具から来ているらしい。
何を隠そう、みゆきは、子供の頃から、説教とお尻叩きがセットになっている「スパンキング」という行為が大好きで、今いるこの部屋は、ネットのSNSで知り合った同好の士のたまり場になっている場所だった。お尻を叩く側をカー、叩かれる側をキーといい、やっていることはただお尻を叩くだけなのに、一人ひとりにいろんなこだわりがあり、それがややこしくて、また楽しい。あまりにも変な趣味なので、みゆきも三ヶ月前までは、心の中にしまいこんでいた「憧れ」だった。
「あなたが落としたのは、樫の木のパドル?それとも、オリーブのカッティングボード?それとも、革のパドルかしら?」
机を挟んで座っているのは、今日、ここに、みゆきと連れ立ってやってきた女性で、櫻守さやという。多分、ここでは、一番の年嵩で、いつもにこにことして、お母さんのような存在だ。
「お湯が沸きましたよ。早くお仕置きをすませて、櫻守さんの持ってきてくれたケーキを食べましょう。」
しれっとした顔で、台所から顔を覗かせたのは、この部屋の主である手嶌御津彦である。30代の独身男性なのに、やたらとマメで、妙に頼りがいがある先輩的雰囲気を醸し出しているが、その実は、冷酷非道の悪魔の様なお仕置きをすると言われている。
「ちゃっちゃと済ませられると思ったら大間違いよ。聞いてよ。手嶌くん、この娘ったら、エレベーターのボタンを殆ど全部押しちゃったんだから。」
「だってだって、さやちゃんが降りる階のボタンを押したら、その周りの数字たちが、ぴかぴかって光って「僕達のことも忘れちゃ嫌だよー」って、私の事を呼ぶんだもの。それを見たら、かわいそうで、思わず手が出ちゃったの。だから、私のせいじゃないって。他のボタンさんが、寂しくないように、一生懸命、降りる階の上の階のボタンを選んで押したんだよ。それに、普段はとろ、いや、おっとりしてるさやちゃんが、あんなに素早く私の手を掴むとは、思わなかったから、エレベーターが降りる階で停まったんで、下の階のボタンも大急ぎで押そうとしたんだけど。」
「こらっ!って、言ってるのに、やめないで、続きを押そうとするんだもの。他の人にすごい迷惑だって事、分からないの?」
「手嶌さんのマンションって、昼間は出入りする人そんなに多く無いと思う。大丈夫。大丈夫。それに、乗ってきて、予めボタンが押してあったら、自分で押す手間が省けるじゃないですか。『きゃあ、嬉しいっ。』って、思ってくれるに違いありませんって。ねえ、手嶌さん、そう思うでしょ。」
「そこで同意を求められても、私が『そう思います。』って、言う訳にはいかないでしょう?みゆきさん。そうか。それでやって来るなりのお仕置きになった訳ですね。ケーキの手土産だけでなく、スパンキングも付いて来るとは、素晴らしい心配り、ありがとうございます。」
手嶌は、苦笑すると、さっさとまた台所の方へ戻っていってしまった。見捨てられたみゆきは、うーうー唸っている。
みゆきが自分の性癖に気がついたのは5つの時だった。TVアニメに出てきたお仕置きのシーン。おじいさんの膝の上に乗せられて、お尻を叩かれている女の子に、目が釘付けになってしまい、鷲掴みにされたようなショックを受けた。もちろん、その時は、その感情が性癖だとは思ってもいなかった。今でも、実のところ思っていない。変な趣味。好きでたまらないだけ。そんな気持ちでいる。
ただ、お仕置きの事が常に頭から離れない。テレビや本の中に、ふと、顔を覗かせる「お尻叩き」に魅せられてしまっていた。めったに現れない事だけに、そんなシーンを目にすると、何度も何度も思い返しては、妄想にふけらずにはいられなかった。
その行為に「スパンキング」と言う名前が付いていて、それが好きな人が少なからずいるのだと分かったのは、家の中にインターネットとパソコンが入ってきた中学生の時だった。
「悪い事をして、叱られて、お尻を叩かれる」という行為は、彼女の中でこね回されて、静かに発酵し、膨らみ続けていたけれど、それが好きだって事は、どう考えてもおかしいという事は分かっていた。どこかいけないことのように感じてならなかった。だから、誰かにうちあけて、理解してもらえる日がくるなんて、思ってもみなかった。
「ほら、早く。あなたの落としたパドルはどおれ?」
「私、落としてなんかいません!この中には私の落としたパドルはありませんっ!あーん、正直に言ってるのにぃ。」
「そこで、正直を発揮しても、叩く回数は減らないからね。」
「だってだって、さやちゃん、このチョイスって酷すぎるー。革のパドルはSMっぽいから論外だし、残りの2つのどっちかって言ったら、カッティングボードの方がまだましじゃないですか。」
「だったら、それを選べばいいでしょう?」
「だけどーーー!それじゃ、お仕置きって感じがあまりしないじゃないですか。雰囲気からしても、風格からしても、どう考えたってこの長くて重い、いかにも痛そうな樫の木のパドルには負けちゃいます!」
「なんで、わざわざ痛い道具の方を選ぶのかさっぱり分からないけどなぁ。それも、とんでもなく、おそろしく、痛いのに。」
櫻守は、わざとらしく最後の言葉を低い声で、強調する。みゆきが痛みと自分の好みのムードを醸し出す道具の間で、選択を逡巡しているのを見て、楽しんでいる。
「じゃあ、樫の木のパドルで20回ね。机の上に手を付いて、お尻を突き出して。」
殊更にゆっくりと重い木のパドルに手を伸ばした櫻守は、みゆきの目の前でびゅうんと素振りをしてみせる。風を切るその音が、その道具の真価を表していて、みゆきは震え上がった。泣きべそをかきながらも、それでも、楽な革のパドルにする・・・・・・と、言わない所が、流石の変態キーの面目躍如であった。
その後20回の悲鳴と、みゆきのありったけの懇願が部屋を満たしたのは言うまでもない。
痛みのために汗びっしょりになり、ほてった顔と身体を持て余したみゆきは、窓を開けてベランダへ出て行った。5月の風が、彼女のもつれた髪をそよがせる。ずきずきと痛むお尻と、不思議とクリアになった気持ち。胸いっぱいを満たす幸福感が、身体を押し広げ、みゆきは、両手を伸ばして、うんっと背伸びをした。
「みゆきったら、ベランダに出ちゃだめよ。」
「どうしてです?ベランダには、いたずらできるような危険なものはありませんよ。柵によじ登れるような踏み台とかもありませんし。」
「だって、こないだ、向かいの喫茶店に行ったら、ここのベランダって結構丸見えなのよ。しかも、なんかあやしい人たちばっかり住んでるでしょ?このマンション。みゆきがそういう仕事の女の子だと思われると困るじゃない。」
「櫻守さんって、ほんとに心配症ですね。それに、私だって、悲鳴と打擲音を周囲に響かせる、むちゃくちゃあやしいあやしい住人だって思われてるのは確実です。」
ふたりの会話を聞きながらみゆきは、くすっと笑った。仲間を見つけた。それが、今のみゆきにとっては、空を飛べるほどの喜びだった。
佐久間みゆきは、低いテーブルの上に並べられた三本のパドルを前に焦りまくっていた。
パドルとは、お尻を叩くためのしゃもじのような道具のことを言う。たいていはしゃもじよりも、もっと凶暴な働きをするのだが、少なくとも形はそうだ。原型はボートを漕ぐ道具から来ているらしい。
何を隠そう、みゆきは、子供の頃から、説教とお尻叩きがセットになっている「スパンキング」という行為が大好きで、今いるこの部屋は、ネットのSNSで知り合った同好の士のたまり場になっている場所だった。お尻を叩く側をカー、叩かれる側をキーといい、やっていることはただお尻を叩くだけなのに、一人ひとりにいろんなこだわりがあり、それがややこしくて、また楽しい。あまりにも変な趣味なので、みゆきも三ヶ月前までは、心の中にしまいこんでいた「憧れ」だった。
「あなたが落としたのは、樫の木のパドル?それとも、オリーブのカッティングボード?それとも、革のパドルかしら?」
机を挟んで座っているのは、今日、ここに、みゆきと連れ立ってやってきた女性で、櫻守さやという。多分、ここでは、一番の年嵩で、いつもにこにことして、お母さんのような存在だ。
「お湯が沸きましたよ。早くお仕置きをすませて、櫻守さんの持ってきてくれたケーキを食べましょう。」
しれっとした顔で、台所から顔を覗かせたのは、この部屋の主である手嶌御津彦である。30代の独身男性なのに、やたらとマメで、妙に頼りがいがある先輩的雰囲気を醸し出しているが、その実は、冷酷非道の悪魔の様なお仕置きをすると言われている。
「ちゃっちゃと済ませられると思ったら大間違いよ。聞いてよ。手嶌くん、この娘ったら、エレベーターのボタンを殆ど全部押しちゃったんだから。」
「だってだって、さやちゃんが降りる階のボタンを押したら、その周りの数字たちが、ぴかぴかって光って「僕達のことも忘れちゃ嫌だよー」って、私の事を呼ぶんだもの。それを見たら、かわいそうで、思わず手が出ちゃったの。だから、私のせいじゃないって。他のボタンさんが、寂しくないように、一生懸命、降りる階の上の階のボタンを選んで押したんだよ。それに、普段はとろ、いや、おっとりしてるさやちゃんが、あんなに素早く私の手を掴むとは、思わなかったから、エレベーターが降りる階で停まったんで、下の階のボタンも大急ぎで押そうとしたんだけど。」
「こらっ!って、言ってるのに、やめないで、続きを押そうとするんだもの。他の人にすごい迷惑だって事、分からないの?」
「手嶌さんのマンションって、昼間は出入りする人そんなに多く無いと思う。大丈夫。大丈夫。それに、乗ってきて、予めボタンが押してあったら、自分で押す手間が省けるじゃないですか。『きゃあ、嬉しいっ。』って、思ってくれるに違いありませんって。ねえ、手嶌さん、そう思うでしょ。」
「そこで同意を求められても、私が『そう思います。』って、言う訳にはいかないでしょう?みゆきさん。そうか。それでやって来るなりのお仕置きになった訳ですね。ケーキの手土産だけでなく、スパンキングも付いて来るとは、素晴らしい心配り、ありがとうございます。」
手嶌は、苦笑すると、さっさとまた台所の方へ戻っていってしまった。見捨てられたみゆきは、うーうー唸っている。
みゆきが自分の性癖に気がついたのは5つの時だった。TVアニメに出てきたお仕置きのシーン。おじいさんの膝の上に乗せられて、お尻を叩かれている女の子に、目が釘付けになってしまい、鷲掴みにされたようなショックを受けた。もちろん、その時は、その感情が性癖だとは思ってもいなかった。今でも、実のところ思っていない。変な趣味。好きでたまらないだけ。そんな気持ちでいる。
ただ、お仕置きの事が常に頭から離れない。テレビや本の中に、ふと、顔を覗かせる「お尻叩き」に魅せられてしまっていた。めったに現れない事だけに、そんなシーンを目にすると、何度も何度も思い返しては、妄想にふけらずにはいられなかった。
その行為に「スパンキング」と言う名前が付いていて、それが好きな人が少なからずいるのだと分かったのは、家の中にインターネットとパソコンが入ってきた中学生の時だった。
「悪い事をして、叱られて、お尻を叩かれる」という行為は、彼女の中でこね回されて、静かに発酵し、膨らみ続けていたけれど、それが好きだって事は、どう考えてもおかしいという事は分かっていた。どこかいけないことのように感じてならなかった。だから、誰かにうちあけて、理解してもらえる日がくるなんて、思ってもみなかった。
「ほら、早く。あなたの落としたパドルはどおれ?」
「私、落としてなんかいません!この中には私の落としたパドルはありませんっ!あーん、正直に言ってるのにぃ。」
「そこで、正直を発揮しても、叩く回数は減らないからね。」
「だってだって、さやちゃん、このチョイスって酷すぎるー。革のパドルはSMっぽいから論外だし、残りの2つのどっちかって言ったら、カッティングボードの方がまだましじゃないですか。」
「だったら、それを選べばいいでしょう?」
「だけどーーー!それじゃ、お仕置きって感じがあまりしないじゃないですか。雰囲気からしても、風格からしても、どう考えたってこの長くて重い、いかにも痛そうな樫の木のパドルには負けちゃいます!」
「なんで、わざわざ痛い道具の方を選ぶのかさっぱり分からないけどなぁ。それも、とんでもなく、おそろしく、痛いのに。」
櫻守は、わざとらしく最後の言葉を低い声で、強調する。みゆきが痛みと自分の好みのムードを醸し出す道具の間で、選択を逡巡しているのを見て、楽しんでいる。
「じゃあ、樫の木のパドルで20回ね。机の上に手を付いて、お尻を突き出して。」
殊更にゆっくりと重い木のパドルに手を伸ばした櫻守は、みゆきの目の前でびゅうんと素振りをしてみせる。風を切るその音が、その道具の真価を表していて、みゆきは震え上がった。泣きべそをかきながらも、それでも、楽な革のパドルにする・・・・・・と、言わない所が、流石の変態キーの面目躍如であった。
その後20回の悲鳴と、みゆきのありったけの懇願が部屋を満たしたのは言うまでもない。
痛みのために汗びっしょりになり、ほてった顔と身体を持て余したみゆきは、窓を開けてベランダへ出て行った。5月の風が、彼女のもつれた髪をそよがせる。ずきずきと痛むお尻と、不思議とクリアになった気持ち。胸いっぱいを満たす幸福感が、身体を押し広げ、みゆきは、両手を伸ばして、うんっと背伸びをした。
「みゆきったら、ベランダに出ちゃだめよ。」
「どうしてです?ベランダには、いたずらできるような危険なものはありませんよ。柵によじ登れるような踏み台とかもありませんし。」
「だって、こないだ、向かいの喫茶店に行ったら、ここのベランダって結構丸見えなのよ。しかも、なんかあやしい人たちばっかり住んでるでしょ?このマンション。みゆきがそういう仕事の女の子だと思われると困るじゃない。」
「櫻守さんって、ほんとに心配症ですね。それに、私だって、悲鳴と打擲音を周囲に響かせる、むちゃくちゃあやしいあやしい住人だって思われてるのは確実です。」
ふたりの会話を聞きながらみゆきは、くすっと笑った。仲間を見つけた。それが、今のみゆきにとっては、空を飛べるほどの喜びだった。
それは不思議な公園だった。
いつ前を通っても、子供の姿が見えないのだ。
公園といえば、子どもと母親、お年寄りと、犬の散歩をする人と、その人達のする雑多な会話がつきものなのじゃないだろうか。すくなくとも、私が子育て中に、子供を連れて公園に通っていた時はそうだった。私には、子供がいない空間を見つけた事が、ほんとうに、ありがたかったのだけれど、それが公園であるというのはある意味、皮肉だった。
私は、いつも、変態仲間の友達の家に行く途中にその公園の前を通る。そして、公園に人の姿が無い時にだけ、足を踏み入れる事にしていた。そんな時は、わざと思いっきり気取った足取りで、一歩一歩、足元を、確かめるようにステップを踏みながら、無人の空間に分け入って行く。
息をひそめて。できるだけゆっくり、スカートが揺れる感触を確かめながら歩く。まっすぐに空に向かって枝を伸ばしているお気に入りの樹の正面に来ると、首を上げて、手の届かない枝先に向かって挨拶をする。それから、そっと幹に腕を廻して樹に抱きつくのだ。ざらざらとした幹の表面に頬を押し付けて、腕に力を込めて身体を樹に押し付けながら、目を閉じて、耳を済まして、ため息をつく。
街中の公園の樹が、伝えてくる音は、車の走る音と、誰かの靴の踵が立てる音。それに、遠くのほうでたまにあがる人の叫び声くらいだろう。顔をあげて空を見ると、澄み切った青い空。今にも雨粒が落ちてくるような垂れこめた灰色の空。白い雲がのどかに風に吹かれて散歩している空。そんないろんな空たちが、頭の上に広がっていて、枝の先っちょは、その空にむかって、せいいっぱい背伸びしている。
やがて、私はだんだん時間を遡っていく。若返っていく。そのためにも、公園には、子供がいてはならない。子供は、魔法のように、私を母親である事実に引き戻す。できれば、自分以外の人は、誰もいない方がいい。
自分以外の人が、常に、自分よりも若いような気がする年齢なって、いったい何年経ったのだろう。子供が家にいる頃は、その子に発達の問題があったせいもあって、私の意識は、常に、お母さんだった。外へ出かけて行っても、周りの人が私を認識する時は、櫻守くんのお母さんである。
子供が巣立っていって、悪い夜遊びをするようになり、若い友達がたくさん出来て、日常から非日常へ飛び出して行くようになっても、なぜか、私の立ち位置は、いつもお母さん。中には、臆面もなく「お母さんって呼んでいいですか?」と、聞いてくる大学生もいる。20代の女の子たちと、おしゃべりしている様は、どう見てもお母さんが娘とじゃれあってるようにしか見えないらしく、周りの人からも「櫻守さんはみんなのお母さんのようね。」と、言わてしまうのだ。それを言う人にとっては、何気ない言葉なのだろうけれど、私にとっては、我が身を縛る呪縛でしかなかった。
だって、どこまで行っても、私は、本当は、母性のかけらもない女で、どこまで行っても、本質は、求められ、無理やり引き倒されて、ひっぱたかれたい変態なのだから。周囲の男たちに、にこにこと、若い娘のお母さんのよう・・・・・・・と、言われて、何の嬉しい事があるだろうか。
強く力を込めて抱きしめても、抱きしめてくれることも、決して、私を傷つけてもくれない樹は、街の中の四角い箱のような公園に、人の手で植えられた樹だ。それでも、私は、その樹にしがみつく。傍から見れば何の意味もなく、何も起こっていない時間の中で、私はどんどん子供に近づいて行く。私の心の中でいつもは眠っている小さい子供に。
ただいま・・・・・・そしておかえり。忘れたふりをした、蓋をした幼い頃の血の記憶。自由にさせたら、我が身をまっしぐらに、破滅へ向かわせてしまうだろうほんとうの欲望。
ほんのちょっとだけ、私は、自分にその時間を許す。それから、断ち切るために、強く、樹にくちづける。ガサガサとした樹皮に、唇をこすりつけ、ひりひりとした痛みを自らの身に刻みつける。そして、手を緩め、後ろ向きに下がる。一歩。二歩。三歩。確かめながら後ろへ下がっていく。少しずつ少しずつ、現実の世界へ、戻っていく儀式。四歩、五歩、六歩。女である自分の存在に、間違いなく着地することを目指して。七歩。八歩。九歩。公園の敷地の終わりまで、後ろ向きのまま下がって行く。
十歩。くるりと、反転して、公園の外に出ると、そこにあるのは、非日常の皮をかぶった日常へ続くマンションへの道。私は、いつもの私。バッグの中にお尻を叩く道具を入れているお母さん。決して、作り上げて来た夫婦生活を壊すような冒険はしない。
一瞬だけ緩んだ蓋が、きっちりと締まっていることを確かめてから、私は、さっきまでの気取りを振り捨てて大股に歩き出すのだ。
いつ前を通っても、子供の姿が見えないのだ。
公園といえば、子どもと母親、お年寄りと、犬の散歩をする人と、その人達のする雑多な会話がつきものなのじゃないだろうか。すくなくとも、私が子育て中に、子供を連れて公園に通っていた時はそうだった。私には、子供がいない空間を見つけた事が、ほんとうに、ありがたかったのだけれど、それが公園であるというのはある意味、皮肉だった。
私は、いつも、変態仲間の友達の家に行く途中にその公園の前を通る。そして、公園に人の姿が無い時にだけ、足を踏み入れる事にしていた。そんな時は、わざと思いっきり気取った足取りで、一歩一歩、足元を、確かめるようにステップを踏みながら、無人の空間に分け入って行く。
息をひそめて。できるだけゆっくり、スカートが揺れる感触を確かめながら歩く。まっすぐに空に向かって枝を伸ばしているお気に入りの樹の正面に来ると、首を上げて、手の届かない枝先に向かって挨拶をする。それから、そっと幹に腕を廻して樹に抱きつくのだ。ざらざらとした幹の表面に頬を押し付けて、腕に力を込めて身体を樹に押し付けながら、目を閉じて、耳を済まして、ため息をつく。
街中の公園の樹が、伝えてくる音は、車の走る音と、誰かの靴の踵が立てる音。それに、遠くのほうでたまにあがる人の叫び声くらいだろう。顔をあげて空を見ると、澄み切った青い空。今にも雨粒が落ちてくるような垂れこめた灰色の空。白い雲がのどかに風に吹かれて散歩している空。そんないろんな空たちが、頭の上に広がっていて、枝の先っちょは、その空にむかって、せいいっぱい背伸びしている。
やがて、私はだんだん時間を遡っていく。若返っていく。そのためにも、公園には、子供がいてはならない。子供は、魔法のように、私を母親である事実に引き戻す。できれば、自分以外の人は、誰もいない方がいい。
自分以外の人が、常に、自分よりも若いような気がする年齢なって、いったい何年経ったのだろう。子供が家にいる頃は、その子に発達の問題があったせいもあって、私の意識は、常に、お母さんだった。外へ出かけて行っても、周りの人が私を認識する時は、櫻守くんのお母さんである。
子供が巣立っていって、悪い夜遊びをするようになり、若い友達がたくさん出来て、日常から非日常へ飛び出して行くようになっても、なぜか、私の立ち位置は、いつもお母さん。中には、臆面もなく「お母さんって呼んでいいですか?」と、聞いてくる大学生もいる。20代の女の子たちと、おしゃべりしている様は、どう見てもお母さんが娘とじゃれあってるようにしか見えないらしく、周りの人からも「櫻守さんはみんなのお母さんのようね。」と、言わてしまうのだ。それを言う人にとっては、何気ない言葉なのだろうけれど、私にとっては、我が身を縛る呪縛でしかなかった。
だって、どこまで行っても、私は、本当は、母性のかけらもない女で、どこまで行っても、本質は、求められ、無理やり引き倒されて、ひっぱたかれたい変態なのだから。周囲の男たちに、にこにこと、若い娘のお母さんのよう・・・・・・・と、言われて、何の嬉しい事があるだろうか。
強く力を込めて抱きしめても、抱きしめてくれることも、決して、私を傷つけてもくれない樹は、街の中の四角い箱のような公園に、人の手で植えられた樹だ。それでも、私は、その樹にしがみつく。傍から見れば何の意味もなく、何も起こっていない時間の中で、私はどんどん子供に近づいて行く。私の心の中でいつもは眠っている小さい子供に。
ただいま・・・・・・そしておかえり。忘れたふりをした、蓋をした幼い頃の血の記憶。自由にさせたら、我が身をまっしぐらに、破滅へ向かわせてしまうだろうほんとうの欲望。
ほんのちょっとだけ、私は、自分にその時間を許す。それから、断ち切るために、強く、樹にくちづける。ガサガサとした樹皮に、唇をこすりつけ、ひりひりとした痛みを自らの身に刻みつける。そして、手を緩め、後ろ向きに下がる。一歩。二歩。三歩。確かめながら後ろへ下がっていく。少しずつ少しずつ、現実の世界へ、戻っていく儀式。四歩、五歩、六歩。女である自分の存在に、間違いなく着地することを目指して。七歩。八歩。九歩。公園の敷地の終わりまで、後ろ向きのまま下がって行く。
十歩。くるりと、反転して、公園の外に出ると、そこにあるのは、非日常の皮をかぶった日常へ続くマンションへの道。私は、いつもの私。バッグの中にお尻を叩く道具を入れているお母さん。決して、作り上げて来た夫婦生活を壊すような冒険はしない。
一瞬だけ緩んだ蓋が、きっちりと締まっていることを確かめてから、私は、さっきまでの気取りを振り捨てて大股に歩き出すのだ。
ずっと男と恋愛してきたから、女の子を好きになるなんて思わなかった。ただの所有欲だったのかもしれない。寂しかっただけかもしれない。抱きしめると柔らかくて暖かかった。笑顔が嬉しかった。走ってきて、抱きついて、くるくる回ってキスするなんて、映画の中の話だと思ってたのに。自分だけの大好きな女の子。小さくて、可愛くて、マシュマロのようだった。
だから、ずっとずっとその先もずっと、一緒に歩いて行こうね・・・って、勝手に思ってた。手を繋いで、寄り添って、ベッドの中で内緒話をする。好きな男の悪口を言って、恋人の優しさをのろけあって、幸せと、喜びと、ありったけの愛を分けあって、思い出をたくさん作って。踊りながら坂道を駆け下りようと思ってたの。
彼女と別れた後に、そんな思い出を消そうと努力を積み重ねていたある日、勇気を出して、思い出の喫茶店のまほろばを訪ねた。そうしたら、見慣れないマスターに、いい人になるための練習をしていた公園がなかったって聞かされてびっくりした。「まほろば」って、思い込んでいた店が「木陰」だったことにも驚いた。だって、私は、確かにあの公園で、好きな子に幸せをあげたくて、一生懸命に理想の女性のイメージを描いては、そう振る舞えるように練習してた。いい人になれるよう、開けてはいけない欲望の蓋を締め直してた。それなのに、その、公園が、最初から無かったなんて・・・。
じゃあ、何を間違ったんだろう?違う駅で降りた?曲がる道を間違えた?真っ直ぐの道でも迷子になる名人だから、マンションの前にあるはずなのに、公園がみつけられない?それとも、あの理想が間違ってたの?私の描いていた未来が?
そうじゃない。今でも、あの子の笑顔は、そこにあるのに、私の気持ちが変わってしまった。彼女が繋いでいる手が、他の人の手になっただけで、世界が、全部違ってしまった。傍に来ても、抱きしめられても、ただ辛いだけ。胸の奥がふさがって、涙になって溢れる。愛は、どこにいったんだろう。確かに私の腕の中にあって、彼女にあげようとしていたものは。あったはずの公園と一緒に、消えてしまったよう。
まっすぐの道路の向こうに建つマンション。道路の手前の喫茶店「木陰」。無くなってしまった公園。このまま、この道を辿って行っても、きっと、愛は見つからない。目を閉じて、もう一度。最初から。そう、できるだけ気取った足取りで、スカートを揺らして、一歩、一歩、ステップを確かめながら歩き出す。
私は、自分で、それを選ぶ事が、できるだろうか。
だから、ずっとずっとその先もずっと、一緒に歩いて行こうね・・・って、勝手に思ってた。手を繋いで、寄り添って、ベッドの中で内緒話をする。好きな男の悪口を言って、恋人の優しさをのろけあって、幸せと、喜びと、ありったけの愛を分けあって、思い出をたくさん作って。踊りながら坂道を駆け下りようと思ってたの。
彼女と別れた後に、そんな思い出を消そうと努力を積み重ねていたある日、勇気を出して、思い出の喫茶店のまほろばを訪ねた。そうしたら、見慣れないマスターに、いい人になるための練習をしていた公園がなかったって聞かされてびっくりした。「まほろば」って、思い込んでいた店が「木陰」だったことにも驚いた。だって、私は、確かにあの公園で、好きな子に幸せをあげたくて、一生懸命に理想の女性のイメージを描いては、そう振る舞えるように練習してた。いい人になれるよう、開けてはいけない欲望の蓋を締め直してた。それなのに、その、公園が、最初から無かったなんて・・・。
じゃあ、何を間違ったんだろう?違う駅で降りた?曲がる道を間違えた?真っ直ぐの道でも迷子になる名人だから、マンションの前にあるはずなのに、公園がみつけられない?それとも、あの理想が間違ってたの?私の描いていた未来が?
そうじゃない。今でも、あの子の笑顔は、そこにあるのに、私の気持ちが変わってしまった。彼女が繋いでいる手が、他の人の手になっただけで、世界が、全部違ってしまった。傍に来ても、抱きしめられても、ただ辛いだけ。胸の奥がふさがって、涙になって溢れる。愛は、どこにいったんだろう。確かに私の腕の中にあって、彼女にあげようとしていたものは。あったはずの公園と一緒に、消えてしまったよう。
まっすぐの道路の向こうに建つマンション。道路の手前の喫茶店「木陰」。無くなってしまった公園。このまま、この道を辿って行っても、きっと、愛は見つからない。目を閉じて、もう一度。最初から。そう、できるだけ気取った足取りで、スカートを揺らして、一歩、一歩、ステップを確かめながら歩き出す。
私は、自分で、それを選ぶ事が、できるだろうか。
「窓と鍵」って雑誌を拾ったことを、どうして知ってるんですか?「昔は、公園にSM雑誌が落ちていた」って、話をよく聞くんですが、私自身は、そういう 覚えが無いんです。せいぜい、裸のグラビアの載った週刊誌を見かけるくらいだったと思う。だから、「窓と鍵」の事は、すごく印象に残っています。初めてで 一度きり。私が、SMについて、いろいろと調べたがりになっちゃったのは、あの雑誌のせいなんじゃないかなぁ。
一番良く覚えてるのは、アナル・フィストの記事だったんです。それはそれは、詳しく書いてありました。
お尻の穴って外部括約筋と内部括約筋って二種類の筋肉からできてるんですよ。知ってました? 外部の方は、中枢神経系なので、自分で意識して動 かすことができるんですけど、内部の方は、自律神経系だから、血圧や呼吸の速さやその他の不随意の身体機能を調節するのと同じで、自分の意のままにならな いんですって。
それから、異物を入れると痛かったりするのは、入り口から二センチ半くらいのアナル管の周囲がクッションのようになっていて、リラックスしてる と、ここから血液がスムーズに排出されて収縮する事ができるんですけど、緊張すると固くなっちゃって、血液がうまく流れないために痛みや不快を感じちゃう らしいんです。
アナル管は、その後二十センチから二十三センチくらいの直腸につながっていて、直腸吊り下げ筋で吊られてるような形になってるの。それで、尾骨 の方にカーブをえがいていて、角度を考えないで異物を挿入してしまうと、腸壁に当たって、スムーズに入らないので、注意してください。無理に入れると、絶 対に、アナルは痛いものって意識にとらわれて、身体が緊張してしまうようになるので。
だから、とにかく、まず、リラックスしないといけないんですよ。できれば腸の中も洗浄する事を薦めてました。やっぱり、最初は、排泄物があると 思うと、いろいろ考えちゃうじゃないですか。相手の手に付いたらどうしよう・・・とか。笑わないでください。乙女にとっちゃ切実な問題です。でも、いちじ く浣腸みたいな薬は使っちゃいけないんだそうです。刺激が強いですから、排泄感を強く感じるようになるので、洗浄した後に、挿入される時によけいな影響が 出ちゃうんですって。人肌のお湯で、洗ってあげるって気持ちですね。使う道具もいろいろ載ってたんですけど、一番気になったのはエネマシリンジだったか なぁ。なんだか、あの色が、ゴムの氷枕みたいな色で、病院で使うような道具に見えてどきどきしました。
次に重要なのは潤滑で、化粧水やクリームは吸収されてしまうので水溶性の潤滑油とかワセリンを薦めていました。水溶性の潤滑油って、今でいう、 「ぺぺ」とかのことでしょうか。ショートニングとかサフラワーオイルとかピーナッツオイルとかも書いてあって、耳慣れない言葉だったので、なんだか、いろ いろと想像してしまいました。今なら、植物性の油だって、すぐ分かるんですけどね。調べることも容易だし。
挿入する人はよく手を洗って、爪も切って、それから、ゆっくりと一本の指から入れるんです。相手が違和感や痛みがあったら、馴染むまでじっと待 つ。お尻って、麻酔を打てば、医者が腕を突っ込めるくらいに、拡張するのは一時間足らずなんですって。すごくよく伸びるの。だから、少しずつ、優しく、 ゆっくりと進めれば、だれでも、結構、大きい物を入れられるようになるんです。
フィストって不思議ですよね。写真とかを見てもグロいだけで、入れる方は、なにが楽しいのかよく分からないです。神経も使うし・・・。相手に対する支配感なのかなぁ。
入れられる方ですか?実は、私、ここまで、滔々と語れるくらい書いてある事を覚えたのに、経験はたいしてないんですよ。それに、相手も、同じよ うに知識があるならいいんですけど、どうしたって、私が受け手なのでねぇ。やりながら語るわけにはいかないし、無駄に詳しいと相手の機嫌も悪くなったりと かするし・・・。
でも、その「窓と鍵」によると、奥まで入れると、みぞおちの辺りを内側から、ペコペコ膨らませることも可能なんですってね。身体の中に他人の腕 が入っていって、中で動いてるのが外から分かるってすごいと思いませんか?直腸の奥にあるS字結腸のところから、手のひらをこう返して、えーと、角度に合 せて進めるんですけどね。気持ち悪いですか? やっぱり? 確かに内臓の中をかき回してるようなもんですものねぇ。
でも、私、思うんですけど、身体の中に自分でない生き物の動きを感じるのって、他には、多分、妊娠の時だけなんですよ。男の人には、分からないでしょう けど、八ヶ月くらいになると、ぐーって肘とか踵とかで、身体の中を押しながら、こするような動きをするんです。それが、妙に痛気持ちよくって。懐かしい なぁって、思うことがあるんです。結構乱暴に蹴られたりとか、急になので構えてないし、びっくりするんだけど、でも、すべてを委ねるっていうか、自分じゃ ないけど自分の一部分っていうか、別の人間なんだけど融け合ってるっていうか・・・そんな感じ。
フィストもそういう行為なんじゃないかな。全面的に相手を信頼して、降伏していないと受け入れられないですよね。不注意で、腸に穴を開けちゃっ たりとか、殺しちゃうことだって無いわけじゃない。だからこそ、相手が細心の注意を払って、自分の反応を真摯に観察してくれる。身体の中が相手の圧力に満 たされる満足感っていうか、一体感っていうか・・・。お互いが宇宙の中を、回りながら漂ってるような感覚を想像してしまうんです。それくらい委ねられる人 が現れたらいいなぁって。
「窓と鍵」には、他にも、いろいろ珍しい事が載ってたんですよね。だから、大人になってから、他のナンバーも、一生懸命探したんですよ。でも、見つからなかった。取っておいたはずの本もいつの間にか失くしてしまってて・・・。すごく残念でした。
一番良く覚えてるのは、アナル・フィストの記事だったんです。それはそれは、詳しく書いてありました。
お尻の穴って外部括約筋と内部括約筋って二種類の筋肉からできてるんですよ。知ってました? 外部の方は、中枢神経系なので、自分で意識して動 かすことができるんですけど、内部の方は、自律神経系だから、血圧や呼吸の速さやその他の不随意の身体機能を調節するのと同じで、自分の意のままにならな いんですって。
それから、異物を入れると痛かったりするのは、入り口から二センチ半くらいのアナル管の周囲がクッションのようになっていて、リラックスしてる と、ここから血液がスムーズに排出されて収縮する事ができるんですけど、緊張すると固くなっちゃって、血液がうまく流れないために痛みや不快を感じちゃう らしいんです。
アナル管は、その後二十センチから二十三センチくらいの直腸につながっていて、直腸吊り下げ筋で吊られてるような形になってるの。それで、尾骨 の方にカーブをえがいていて、角度を考えないで異物を挿入してしまうと、腸壁に当たって、スムーズに入らないので、注意してください。無理に入れると、絶 対に、アナルは痛いものって意識にとらわれて、身体が緊張してしまうようになるので。
だから、とにかく、まず、リラックスしないといけないんですよ。できれば腸の中も洗浄する事を薦めてました。やっぱり、最初は、排泄物があると 思うと、いろいろ考えちゃうじゃないですか。相手の手に付いたらどうしよう・・・とか。笑わないでください。乙女にとっちゃ切実な問題です。でも、いちじ く浣腸みたいな薬は使っちゃいけないんだそうです。刺激が強いですから、排泄感を強く感じるようになるので、洗浄した後に、挿入される時によけいな影響が 出ちゃうんですって。人肌のお湯で、洗ってあげるって気持ちですね。使う道具もいろいろ載ってたんですけど、一番気になったのはエネマシリンジだったか なぁ。なんだか、あの色が、ゴムの氷枕みたいな色で、病院で使うような道具に見えてどきどきしました。
次に重要なのは潤滑で、化粧水やクリームは吸収されてしまうので水溶性の潤滑油とかワセリンを薦めていました。水溶性の潤滑油って、今でいう、 「ぺぺ」とかのことでしょうか。ショートニングとかサフラワーオイルとかピーナッツオイルとかも書いてあって、耳慣れない言葉だったので、なんだか、いろ いろと想像してしまいました。今なら、植物性の油だって、すぐ分かるんですけどね。調べることも容易だし。
挿入する人はよく手を洗って、爪も切って、それから、ゆっくりと一本の指から入れるんです。相手が違和感や痛みがあったら、馴染むまでじっと待 つ。お尻って、麻酔を打てば、医者が腕を突っ込めるくらいに、拡張するのは一時間足らずなんですって。すごくよく伸びるの。だから、少しずつ、優しく、 ゆっくりと進めれば、だれでも、結構、大きい物を入れられるようになるんです。
フィストって不思議ですよね。写真とかを見てもグロいだけで、入れる方は、なにが楽しいのかよく分からないです。神経も使うし・・・。相手に対する支配感なのかなぁ。
入れられる方ですか?実は、私、ここまで、滔々と語れるくらい書いてある事を覚えたのに、経験はたいしてないんですよ。それに、相手も、同じよ うに知識があるならいいんですけど、どうしたって、私が受け手なのでねぇ。やりながら語るわけにはいかないし、無駄に詳しいと相手の機嫌も悪くなったりと かするし・・・。
でも、その「窓と鍵」によると、奥まで入れると、みぞおちの辺りを内側から、ペコペコ膨らませることも可能なんですってね。身体の中に他人の腕 が入っていって、中で動いてるのが外から分かるってすごいと思いませんか?直腸の奥にあるS字結腸のところから、手のひらをこう返して、えーと、角度に合 せて進めるんですけどね。気持ち悪いですか? やっぱり? 確かに内臓の中をかき回してるようなもんですものねぇ。
でも、私、思うんですけど、身体の中に自分でない生き物の動きを感じるのって、他には、多分、妊娠の時だけなんですよ。男の人には、分からないでしょう けど、八ヶ月くらいになると、ぐーって肘とか踵とかで、身体の中を押しながら、こするような動きをするんです。それが、妙に痛気持ちよくって。懐かしい なぁって、思うことがあるんです。結構乱暴に蹴られたりとか、急になので構えてないし、びっくりするんだけど、でも、すべてを委ねるっていうか、自分じゃ ないけど自分の一部分っていうか、別の人間なんだけど融け合ってるっていうか・・・そんな感じ。
フィストもそういう行為なんじゃないかな。全面的に相手を信頼して、降伏していないと受け入れられないですよね。不注意で、腸に穴を開けちゃっ たりとか、殺しちゃうことだって無いわけじゃない。だからこそ、相手が細心の注意を払って、自分の反応を真摯に観察してくれる。身体の中が相手の圧力に満 たされる満足感っていうか、一体感っていうか・・・。お互いが宇宙の中を、回りながら漂ってるような感覚を想像してしまうんです。それくらい委ねられる人 が現れたらいいなぁって。
「窓と鍵」には、他にも、いろいろ珍しい事が載ってたんですよね。だから、大人になってから、他のナンバーも、一生懸命探したんですよ。でも、見つからなかった。取っておいたはずの本もいつの間にか失くしてしまってて・・・。すごく残念でした。
その三角木馬の背は、木で出来ていました。鋭角を描くべき背は、気休めのように、先を丸く削って油で磨き立ててあります。その艶やかさは、上に乗って来る女達の股間を、優しく、受け止めてくれるようにさえ見えます。けれどそんなことは、決して在り得ません。もともと股間は、体重を支えるように出来ている場所ではありませんから。
実は、今から、一人の女性が、この上に乗せられるのを観るために、私はここに来ているのです。周囲にひしめき合いながら座っているたくさんの人たちは、ほとんどが男性で、私を含めて、女性は4、5人という少なさです。今日は、ちょっとした秘密の集まり「女囚拷問の夕べ」なのです。
昔、私は、公園で、雑誌を拾いました。「窓と鍵」という題名の本です。あなたが探しているのは、その雑誌でしょう? 薄い冊子で表紙も地味なのに、小さな文字でその中に、たくさんの物語を抱え込んでいました。今、私が、ここにいるのは、その雑誌のせいです。その雑誌は、私の好奇心と、いろんな加虐や被虐に対する衝動を目覚めさせたのでした。日常生活に必要のない、益体もない嗜好の知識を拾い集めたがるようになったのも、それがきっかけでした。
そして、今夜、舞台の上で拷問にかけられる私の女友達も、その雑誌を公園で拾った事があると言っていました。その中の妄想譚の一つを読んでから、女囚になって、拷問を受けてみたいと憧れるようになったらしいのです。もちろん舞台の上で行われるのは拷問ごっこで、彼女もそれは分かっているのですが、与えられる痛みは本物で、なまじっかの覚悟では受け切れるものではありません。
三角木馬が責問いに使われるようになったのは、武士が台頭してきた時代だと推測されています。武家の家にはどこも、鞍を乗せておく木製の台が備えられていたからです。その台は、人を跨がらせるのに調度良く、拷問のために背をわざわざ尖らせたりしてはいなかったのですが、それでも、その背の部分に人を跨がらせて、自重で、股間に苦痛を与えたり、その台に固定することによって、身体を打ったりするのに都合がよかったのです。やがて、その背は、乗り手の身体を痛めつけ、股を裂くために鋭く尖らせるようになっていきます。
海外にも拷問の道具として、三角木馬が作られているのですから、文明や時代にかかわらず、目的に叶う道具は同じ形になるのでしょう。
やがて、部屋を仕切った暗幕の影から、私の女友達が男に引き立てられて出てきました。灰色の着物を纏い、後ろ手に縛られて縄尻を取られています。私と彼女の間の距離は5メートルもありません。部屋に入った時に、一度だけちらりと、私を見た彼女は、すぐに、恥ずかしそうに頬を染めて、目を逸らします。
その後は彼女はもう、私を見ることはありません。、舞台正面に引き据えられ、正座している彼女は、肩をいからせ、拳を握りしめ、頑なに床を見つめ続け、身を乗り出し、舐めるように彼女を見つめる男たちの視線に耐えていました。
これから何が起るのかを知っていて、待っている時間が辛いのは私も知っています。私の友達も、今日は食べ物が喉を通らず、せっかく食べても身体が受け付けずに、吐いてしまっているようでした。昨日は眠れなかったのか、すでに青ざめて辛そうです。
やがて、責める役の男が、彼女の後ろに、あの大きな木馬を運んで来ました。そして、座っていた彼女を引き上げて立たせると、後手にかかっている縄に、縄を足して、彼女を宙に吊り上げました。それから、着物の裾を大きくまくり上げて、下半身を露出させます。むき出しの尻は白く陶器のようで、脚は足場を求めて足掻き、拠り所を求めてよじり合わされます。今、彼女は彼女の夢に、そして、私は私の夢に入っていこうとしているのです。
十分晒し者にしたと思ったのか、男が、彼女の身体の下に木馬を引きずってきます。重い木馬が床をこする音は、恐ろしい物が近づいてくる時の序曲のようです。逃げようとする足首を掴まれ、引き寄せられた彼女の足の間に、無理矢理に押し込まれていく禍々しい木馬。今、苦痛の処刑台は、静かに彼女の身体が降りてくるのを待っています。
ゆっくりと、縄が緩められ、彼女の身体が静々と下降して木馬を跨ぐのを、見開いたたくさんの眼が、彼女の身体の一点だけを見つめています。ほとんど身体が馬の背の上に乗ったかに思えた頃合いに、男は、縄を一旦仮留めすると、彼女の足を二つ折りにして縛り始めました。木馬の横木に足を踏ん張れないようにしているのです。半分に折り曲げられてぐるぐると縄を巻かれていく間、彼女は、激しく首を振って、身体を揺すって泣き出しました。
縄が巻き付いた太腿は、無意識に、自分の出来ることをしようとしています。力を込め、木馬を挟み込み、締め付けて、身体を支えようと。体重が背に乗らぬように、自分の身体を浮かせておこうと、力を振り絞っています。
その間に男は、彼女の髪の毛を掴んでねじりあげ、俯いていた彼女の顔を晒します。青ざめた生贄の美しい顔が歪みます。縄で髪をくくり、吊られた縄に留められてしまうと、俯くことも、暴れることも制限されて、身体の重心は、まっすぐに馬の背に乗せられた部分にかかることになるのでした。
それから男は、仮止めを解いて、彼女の身体をわずかばかり苦痛から遠ざけていた、吊っていた縄を緩め始めました。彼女の身体が縄に頼って浮かせられる事が無いように、それでいて、倒れたり落ちたりしない程度に。すると、もう、ほとんど、木馬に乗ったと思っていた彼女の身体は、ゆっくりと沈んでいき、三角形の先は、股間深くにめり込んで行き始めたのです。
彼女のかすれた悲鳴が響き、全身を貫いた苦痛が、身体の表面を、さざ波のように移動していくのが分かりました。もう、あまりの痛みと、恐ろしさに、身動きすることも出来なのです。それは、その姿を見つめる私たちも同じでした。声も立てず、身を乗り出したまま、ただ、目の前に現れた苦痛のオブジェを見つめるだけです。
段々と彼女の息が荒くなっていき、着物を捲くられた背の辺りから汗が流れ落ち始めます。しっとりと濡れた身体が、ただ上下に息づいていました。彼女の顔は歪み、その苦痛を表しているのは、しっかりと握りしめられた震える拳と、折り曲がったつま先の血の気の失せた有り様だけとなるのでした。
頃合いを見計らって、表情を変えずに淡々と男が近づくと、竹に割って、細挽きを巻きつけた笞を振り上げます。そして勢い良く尻に向かって打ち下ろすのです。静寂を破る新たな悲鳴。動くまいとしていた身体が反射的に跳ね上がり、一層、重みのかかった部分の痛みを増幅させてしまうのが分かりました。一発で、彼女の白かった尻には赤いミミズ腫れが浮き上がってきます。
笞は、何度も振り下ろされ、それからふと止まります。固まって見ている私たちが、息をする事を思い出すように。彼女が落ち着きを取り戻し、もう一度動揺するのを繰り返すために。笞が休んでいる間も、息をする度に上下する肩が痛々しく、くいしばった歯の隙間からは呻き声が漏れます。
長い時間責めが続き、彼女の体力が削り取られて行き、悲鳴もか細くなってくると、男は、彼女の肩を掴み、全体重をかけて、彼女の股間を木馬に捻り押し付けました。縛られた足に新たな石の錘を結びつけ、その錘を急に落として、衝撃を与えます。新たな責めが加えられる度に、彼女は生き返り、魚のように身体を跳ね逸らすのでした。力を込め続けた太腿はぶるぶると震え、身体はぐらぐらと姿勢も定まらなくなって行きます。
彼女の頬がみるみるうちに削げ、泣き喚き打ち振られる顔は、涙にびっしょりと濡れて、くくられた膝の先から、汗が滴り落ちるのがライトに光っていました。纏った着物も汗を吸って色変わりしていき、やがて床が汗だけでないもので濡れた時、ようやくその演目は終わりを迎えました。
彼女の身体を降ろそうと、男が足の縄を解き始め、木馬を彼女の身体から引き抜くと、自分で立っていられないほどに衰弱した彼女は、吊られた縄の先にぶら下がった死体のようになっていました。
それでも、責め役を務めた男は、そのまま静かに幕を引くのをよしとしなかったのでしょう。男は、彼女の身体からびっしょりと濡れた着物を引き剥ぐと、もう一度床に足が着かないよう吊り上げ、抵抗の出来ない無防備な身体を、竹割りの笞で散々に打ちすえました。竹の角で肌は切れ、血が縞模様を描きながら流れ始めます。打擲は、彼女の体中に赤い蛇が浮き上がり、鳴き声が枯れ、息も絶え絶えになるまで続きました。
部屋は、それを見つめ、視線だけで貪り食った、たくさんの鬼達の身体の熱気でむせ返っています。そして、その中の一人にすぎ無い私は、女友達の身を案ずることもなく、我が身のうちの想いに耳を済まし、喜びのため息をもらしてしまうのでした。
いいえ、それでも、私は、知っています。一時間後に、会って抱きしめるこの女友達のこけた頬は、薔薇色にいろづき、瞳は異様に輝いていることを。彼女は、私の腕の中で、三ヶ月後の石抱きの舞台も、ぜひ、観に来て欲しいと、少女のような声で語りかけてくるのです。
実は、今から、一人の女性が、この上に乗せられるのを観るために、私はここに来ているのです。周囲にひしめき合いながら座っているたくさんの人たちは、ほとんどが男性で、私を含めて、女性は4、5人という少なさです。今日は、ちょっとした秘密の集まり「女囚拷問の夕べ」なのです。
昔、私は、公園で、雑誌を拾いました。「窓と鍵」という題名の本です。あなたが探しているのは、その雑誌でしょう? 薄い冊子で表紙も地味なのに、小さな文字でその中に、たくさんの物語を抱え込んでいました。今、私が、ここにいるのは、その雑誌のせいです。その雑誌は、私の好奇心と、いろんな加虐や被虐に対する衝動を目覚めさせたのでした。日常生活に必要のない、益体もない嗜好の知識を拾い集めたがるようになったのも、それがきっかけでした。
そして、今夜、舞台の上で拷問にかけられる私の女友達も、その雑誌を公園で拾った事があると言っていました。その中の妄想譚の一つを読んでから、女囚になって、拷問を受けてみたいと憧れるようになったらしいのです。もちろん舞台の上で行われるのは拷問ごっこで、彼女もそれは分かっているのですが、与えられる痛みは本物で、なまじっかの覚悟では受け切れるものではありません。
三角木馬が責問いに使われるようになったのは、武士が台頭してきた時代だと推測されています。武家の家にはどこも、鞍を乗せておく木製の台が備えられていたからです。その台は、人を跨がらせるのに調度良く、拷問のために背をわざわざ尖らせたりしてはいなかったのですが、それでも、その背の部分に人を跨がらせて、自重で、股間に苦痛を与えたり、その台に固定することによって、身体を打ったりするのに都合がよかったのです。やがて、その背は、乗り手の身体を痛めつけ、股を裂くために鋭く尖らせるようになっていきます。
海外にも拷問の道具として、三角木馬が作られているのですから、文明や時代にかかわらず、目的に叶う道具は同じ形になるのでしょう。
やがて、部屋を仕切った暗幕の影から、私の女友達が男に引き立てられて出てきました。灰色の着物を纏い、後ろ手に縛られて縄尻を取られています。私と彼女の間の距離は5メートルもありません。部屋に入った時に、一度だけちらりと、私を見た彼女は、すぐに、恥ずかしそうに頬を染めて、目を逸らします。
その後は彼女はもう、私を見ることはありません。、舞台正面に引き据えられ、正座している彼女は、肩をいからせ、拳を握りしめ、頑なに床を見つめ続け、身を乗り出し、舐めるように彼女を見つめる男たちの視線に耐えていました。
これから何が起るのかを知っていて、待っている時間が辛いのは私も知っています。私の友達も、今日は食べ物が喉を通らず、せっかく食べても身体が受け付けずに、吐いてしまっているようでした。昨日は眠れなかったのか、すでに青ざめて辛そうです。
やがて、責める役の男が、彼女の後ろに、あの大きな木馬を運んで来ました。そして、座っていた彼女を引き上げて立たせると、後手にかかっている縄に、縄を足して、彼女を宙に吊り上げました。それから、着物の裾を大きくまくり上げて、下半身を露出させます。むき出しの尻は白く陶器のようで、脚は足場を求めて足掻き、拠り所を求めてよじり合わされます。今、彼女は彼女の夢に、そして、私は私の夢に入っていこうとしているのです。
十分晒し者にしたと思ったのか、男が、彼女の身体の下に木馬を引きずってきます。重い木馬が床をこする音は、恐ろしい物が近づいてくる時の序曲のようです。逃げようとする足首を掴まれ、引き寄せられた彼女の足の間に、無理矢理に押し込まれていく禍々しい木馬。今、苦痛の処刑台は、静かに彼女の身体が降りてくるのを待っています。
ゆっくりと、縄が緩められ、彼女の身体が静々と下降して木馬を跨ぐのを、見開いたたくさんの眼が、彼女の身体の一点だけを見つめています。ほとんど身体が馬の背の上に乗ったかに思えた頃合いに、男は、縄を一旦仮留めすると、彼女の足を二つ折りにして縛り始めました。木馬の横木に足を踏ん張れないようにしているのです。半分に折り曲げられてぐるぐると縄を巻かれていく間、彼女は、激しく首を振って、身体を揺すって泣き出しました。
縄が巻き付いた太腿は、無意識に、自分の出来ることをしようとしています。力を込め、木馬を挟み込み、締め付けて、身体を支えようと。体重が背に乗らぬように、自分の身体を浮かせておこうと、力を振り絞っています。
その間に男は、彼女の髪の毛を掴んでねじりあげ、俯いていた彼女の顔を晒します。青ざめた生贄の美しい顔が歪みます。縄で髪をくくり、吊られた縄に留められてしまうと、俯くことも、暴れることも制限されて、身体の重心は、まっすぐに馬の背に乗せられた部分にかかることになるのでした。
それから男は、仮止めを解いて、彼女の身体をわずかばかり苦痛から遠ざけていた、吊っていた縄を緩め始めました。彼女の身体が縄に頼って浮かせられる事が無いように、それでいて、倒れたり落ちたりしない程度に。すると、もう、ほとんど、木馬に乗ったと思っていた彼女の身体は、ゆっくりと沈んでいき、三角形の先は、股間深くにめり込んで行き始めたのです。
彼女のかすれた悲鳴が響き、全身を貫いた苦痛が、身体の表面を、さざ波のように移動していくのが分かりました。もう、あまりの痛みと、恐ろしさに、身動きすることも出来なのです。それは、その姿を見つめる私たちも同じでした。声も立てず、身を乗り出したまま、ただ、目の前に現れた苦痛のオブジェを見つめるだけです。
段々と彼女の息が荒くなっていき、着物を捲くられた背の辺りから汗が流れ落ち始めます。しっとりと濡れた身体が、ただ上下に息づいていました。彼女の顔は歪み、その苦痛を表しているのは、しっかりと握りしめられた震える拳と、折り曲がったつま先の血の気の失せた有り様だけとなるのでした。
頃合いを見計らって、表情を変えずに淡々と男が近づくと、竹に割って、細挽きを巻きつけた笞を振り上げます。そして勢い良く尻に向かって打ち下ろすのです。静寂を破る新たな悲鳴。動くまいとしていた身体が反射的に跳ね上がり、一層、重みのかかった部分の痛みを増幅させてしまうのが分かりました。一発で、彼女の白かった尻には赤いミミズ腫れが浮き上がってきます。
笞は、何度も振り下ろされ、それからふと止まります。固まって見ている私たちが、息をする事を思い出すように。彼女が落ち着きを取り戻し、もう一度動揺するのを繰り返すために。笞が休んでいる間も、息をする度に上下する肩が痛々しく、くいしばった歯の隙間からは呻き声が漏れます。
長い時間責めが続き、彼女の体力が削り取られて行き、悲鳴もか細くなってくると、男は、彼女の肩を掴み、全体重をかけて、彼女の股間を木馬に捻り押し付けました。縛られた足に新たな石の錘を結びつけ、その錘を急に落として、衝撃を与えます。新たな責めが加えられる度に、彼女は生き返り、魚のように身体を跳ね逸らすのでした。力を込め続けた太腿はぶるぶると震え、身体はぐらぐらと姿勢も定まらなくなって行きます。
彼女の頬がみるみるうちに削げ、泣き喚き打ち振られる顔は、涙にびっしょりと濡れて、くくられた膝の先から、汗が滴り落ちるのがライトに光っていました。纏った着物も汗を吸って色変わりしていき、やがて床が汗だけでないもので濡れた時、ようやくその演目は終わりを迎えました。
彼女の身体を降ろそうと、男が足の縄を解き始め、木馬を彼女の身体から引き抜くと、自分で立っていられないほどに衰弱した彼女は、吊られた縄の先にぶら下がった死体のようになっていました。
それでも、責め役を務めた男は、そのまま静かに幕を引くのをよしとしなかったのでしょう。男は、彼女の身体からびっしょりと濡れた着物を引き剥ぐと、もう一度床に足が着かないよう吊り上げ、抵抗の出来ない無防備な身体を、竹割りの笞で散々に打ちすえました。竹の角で肌は切れ、血が縞模様を描きながら流れ始めます。打擲は、彼女の体中に赤い蛇が浮き上がり、鳴き声が枯れ、息も絶え絶えになるまで続きました。
部屋は、それを見つめ、視線だけで貪り食った、たくさんの鬼達の身体の熱気でむせ返っています。そして、その中の一人にすぎ無い私は、女友達の身を案ずることもなく、我が身のうちの想いに耳を済まし、喜びのため息をもらしてしまうのでした。
いいえ、それでも、私は、知っています。一時間後に、会って抱きしめるこの女友達のこけた頬は、薔薇色にいろづき、瞳は異様に輝いていることを。彼女は、私の腕の中で、三ヶ月後の石抱きの舞台も、ぜひ、観に来て欲しいと、少女のような声で語りかけてくるのです。
「新聞社にお勤めされていらっしゃるんですか? それともフリータイターでらっしゃるんですか? わたくし、そういう方は、コーヒーがお好きなのだと思っていました。」
女性は、少し、緊張したぎこちない笑みを浮かべながらも、歌うように筆者に話しかけてくる。日本人形のように切りそろえられた黒い髪に、くっき りとした深い瞳。語る度に、ひらひらと動き回る彼女の手は、陶器のように滑らかで白く、しなやかで、美しい。しかし、惜しいかな左手には、薬指と小指が無 い。だが、彼女は全くそれを隠すような素振りは見せず、その手は、自由に空間を踊った。そして、筆者は、彼女の話に聞き入っているうちに、欠けた物がある からこそ、かえってその美しさが際立つのだと感じ始めていた。
普段、ほとんど、家に閉じこもって生活をしているというその女性は、ようこの話の後に、「窓と鍵」の雑誌を拾った時の事を、その人と交わらぬ生活ぶりとは裏腹に、率直に語ってくれたと思う。
「そう、『窓と鍵』でした。私は、その雑誌を、塾の帰りに通りかかった公園で拾ったのです。中学2年生だったと思います。『窓と鍵』という題名 も、平凡な二色刷りの表紙も、扇情的なものはなにもなくて・・・・・・。私は、つい『あ、雑誌が落ちてる。なんだろう』程度の認識に引かれて、公園に入り 込んでしまいました。そして、何の警戒心も無くその場で、拾い上げた雑誌のページをめくってしまったのです。後から思うと、どうしてそんなことしてしまっ たのか、どうしても分かりませんでした。落ちているものを拾うなんて・・・・・・でも、その時は、なんとなく、ただふらふらと、そうしてしまったんです。
けれど、色刷りのページを開いた途端に、私の喉は、驚きのあまり、締め上げられるような呻き声をあげてしまいました。大慌てで、ぱたんと音を立 てて雑誌を閉じた後も、物凄く悪いことをしている所を見つかった気分に襲われ、おそるおそる、周囲を見回さずにいられませんでした。
夕暮れの公園には人影もなく、公園の周囲は、木が生い茂り、たとえ、周囲の家の窓から誰かが覗いていたとしても、何も目撃する事は、できないと思われました。
でも、もし、ここにこの雑誌がある事を知っていた人がいたら。私が、公園に入り込んで、出てきた時に、雑誌が無くなっていることに気づいたら。 持っていったのは、あの中学生の女の子に違いないと分かってしまう。どうしよう・・・・・って、思ったのを覚えています。そんな事、だれにも、知られてい るはずもないのに・・・・・。でも、そう思うだけで、私は、かあっと顔が熱くなり、震える手でその雑誌を塾のバックの中に大急ぎで突っ込むと、足早に家 に、逃げ帰ったのでございます。
その夜、家人が寝静まってから、布団の中に学習用のスタンドを引き込んで、息を殺してむさぼるように雑誌を読んだのを覚えています。頬のすぐそばにあった、蛍光灯のランプが、すごく熱くて、湿った身体を動かそうとする度に、汗で張り付いた肌が、いやらしく音を立てるんじゃないかと思いました。
その雑誌は、今で言えばSM雑誌と、人に呼ばれる種類のものだったと思います。けれど、私は、そういう事だけを集めた雑誌の存在を、よく知りませんでした。断片的にしか知らなかった、赤裸々な男女の交わりだけでなく、嫌がる女を縛って無理矢理に犯したり、鞭で打ち据えたり、果ては、たくさんの人達 の前で辱めたりするような絵や小説が沢山載っていました。
それから、淡々と、まるで科学の実験レポートのように、蝋燭の温度や、縄の手入れの方法を説明しているページもありました。女性はそこでは、実 験の道具で、物のように扱われるのです。その合間には、白黒で刷られた、海外の絵と覚しき拷問図が散りばめられていて、数々の拷問を受け続けていて、私 が、ページをめくる度に、囲まれた壁に悲鳴を響き渡らせていました。
その雑誌は、私が今まで、自分の中に見つけ、扱いかねていた欲望を全て、余すこと無く、誰の目にも分かる形で、描いた雑誌だったのです。」
(つづく)
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[22] 2014年09月15日 02:29
さやか
そこで、彼女は、ほうっ・・・・・・と、ため息をついて、もう一口紅茶をすすろうとしたが、カップの中は空っぽだったので、自分で、ポットを引き寄せて、私と自分のカップにおかわりの紅茶を注いだ。指が無くても、動作に不自由さは無く、それでもやっぱりその欠けた部分を、筆者は、無作法にも、じっと見 つめずにはいられなかった。
「この、指。気になりますか。これは、昨年、包丁で、うっかり、切り落としてしまったのです。」
筆者は、思わず首を横に振って、気にならないと応えてみたものの、その瞬間に、彼女の着ている襟が隠しきれずに、変色した打ち傷の痣を覗かせているのに気がついた。そして、彼女自身も多分、筆者がそれに気が付いた事に、気がついた様子で、ふっ・・・・・と視線を逸らした。
「私が、初めて、そういう行為がこの世の中にあるという事を知ったのは、高校の国語教師だった叔父の家に、しばしば遊びに行き、泊まるように なったせいでした。叔父は、壁一面を、たくさんの難しい本で埋め尽くした書斎を持っており、遊びに行くと、私は、その部屋に布団を敷いて寝かせられていたのです。
小学3年生でした。こんな子供が、小さな字でいっぱいの文学全集や学問の本や、大人用の雑誌の中から、砂浜に落ちている、埋もれかけている桜貝 のようなささやかな存在である、可逆被虐のシーンを探し、隠れて読んでいるなどと、大人たちは、誰も想像していなかったに違いありません。
私は、私の胸に響くシーンを追い求め、文学全集から、推理小説まで、並んでいる本を次々と漁りました。とにかく、無理やり酷いことをされる女性を描いている部分が好きだったのです。恐怖に頬を引きつらせ、涙ながらに懇願し、許しを請い、逃げ惑い、悲鳴をあげ、痛みに身悶えする女達が表現されてい る部分が・・・・・・。
それから、私は、本屋に行くと、それらしい記述のある本を探すようになりました。けれど、何しろ小学生ですもの。持っているお小遣いも少なく、ヌードグラビアが載るような雑誌に近づくなんて、到底出来るはずもありません。私は、文庫本のコーナーを行ったり来たりして、ようやく、文庫本になっていた、海外の官能文学を手に入れました。
そして、白黒の挿絵がわずかばかりに入っているだけの、文字の連なりの中に、恋焦がれる行為をみつけ、戒めを解こうと必死になって、身をもがく女達を探しだしました。優等生の仮面を被ったまま、その子供が読むのは禁止されていると思われる一瞬、一瞬を愛で、繰り返し、繰り返し、心の中で思い巡ら し、身のうちにふつふつと滾るものを抱えて、生きておりました。
ですから、「窓と鍵」を、布団の中で読んだ夜は、私にとっては、到底忘れられない夜になったのです。今まで見てきた、白黒の抽象化された挿絵 や、時代小説の中に時折現れる責め折檻とは違って、そそけだつ産毛すらも見えるかのように克明に描かれた女性が、乱れた着物をはだけたまま、眉を寄せた辛そうな表情で床の間に縛られて晒されている絵やあられもない姿で男たちに責めさいなまれている様が並んでいました。また、物語の中で、ただそれだけが目的の物語の中で、延々と、悲鳴をあげ、涙を流しながら、身をくねらせる様が克明に描かれていたのです。
今まで、飢えながら、あちこちを探しても、得られなかったものを見つけた喜びと、明らかにいけないことをしているに違いないと思う確信に、私の胸は高鳴りました。
そして、何度も何度も、読み返すうちに、私の身体は熱く火照り、自分の手で、どこかに、振れることも恐ろしいほどに敏感に、むき出しになってい きました。それは、ただ、身体だけの事では、ありません。心もそうでした。蓋を締めてしまい込み、見つからないように、時々こっそりと覗き込み、楽しんで きた、いけない禍事の中に、私の想いはどっぷりと浸かりきり、固く結び付けられてしまいました。今までの飢えを満たすかのように、何度も何度も、頭から泉 に顔を突っ込むようにして、淫楽の泉から水を飲み干していました。」
(つづく)
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[24] 2014年09月15日 02:37
さやか
「今では、私も大人になり、いつしか、身体の関係があるような恋人とも、何人もおつきあいした事もございます。
昔に比べて、そのような本もビデオも、簡単に手に入るようになりました。ただ、私が大人になっただけかもしれませんが。でも、どんな雑誌でも、本でも、「窓と鍵」のように、何度も何度も、繰り返し舐めるように読むような事はありませんでした。
それから、始めは緊張しましたけれど、それこそ清水の舞台から飛び降りるようなつもりでIDカードがないと入店できないようなお店にも、行った 事もございます。思いの外、店員さんも、常連のお客さんも、フランクで、まるで、行きつけの喫茶店でも出来たような気軽さで、そのお店に通っていました。 お恥ずかしい事でございますが、服こそは脱ぎませんでしたけど、親しくなった方に縛ってもらった事もございました。そういうお店に来るお客さんは、大抵だ れでも縄を自由に操ることができて、紳士的で、優しいのです。身体をいやらしく撫で回すこともなく、いきなり服を引き裂いたりもしません。
でも、そういう場所では、私は、布団の中に隠れて、あの本をこっそりと読んでいた時のような喜びは、一度も感じたことはございません。実際に、 縛られて自由を奪われているはずなのですけれど、男性は、決して私の嫌がることはせず、その行為に慣れきった他のお客たちは、隅っこで、そんなみだらがま しい事をしている私たちを、いやらしくジロジロと見ることもありませんでした。
あの店は、安全でした。女性にとっては、限りなく。そして、そこで飲む水はまるで、濾過されてしまった、味の全くしない水道水のよう・・・。不純物はまるで入っていないかけれど、喜びのかけらも見つけることはできないのです。
だからいつの間にか、自分が、あの本を無くしてしまった事に気がついた時は、わたくし、本当に悲しくて、悲しくて・・・・・・。いつまでも塞ぎ こんでしまい、諦めきれませんでした。それを失ってしまったと思っただけで、もう、なにもかもどうでもいい・・・・・・って、思えるくらいに。」
話が終わって、彼女が立ち上がった時、どこかで鈴の音が鳴った。筆者は、猫がいるのかと、思わずテーブルの下を覗きこんだけれど、そんなものが いるはずもなく、目の前にあるのは、彼女のむき出しの足首だった。その足首の周囲は、どこか、痛々しく、青黒く変色していて、少し凹んでいるような気がし た。
「ふふふ・・・。」
彼女が笑ったような気がして、筆者は、はっと姿勢を正した。自分が、女性に取っては失礼なことをしてしまったという意識があったせいか、いつもは無遠慮に、根掘り葉掘り質問を重ねる唇は、気の利いた挨拶を述べることも、うまくいかないかった。
喫茶店の前で、彼女と別れた。彼女を見送りながら、筆者は、思わずため息をついてしまっていた。なぜか、つきものが落ちた瞬間のように、だるく、力が入らなかった。
指って、包丁で、うっかり、切り落とせるようなものなじゃないよな・・・・・・。
筆者は、彼女を追いかけて行って、もっと、色んな話を聞くべきだ・・・・・・と、自分を叱咤してみた。けれど、その足は、意に反して、地面に張り付いたように動かなかった。
女性は、少し、緊張したぎこちない笑みを浮かべながらも、歌うように筆者に話しかけてくる。日本人形のように切りそろえられた黒い髪に、くっき りとした深い瞳。語る度に、ひらひらと動き回る彼女の手は、陶器のように滑らかで白く、しなやかで、美しい。しかし、惜しいかな左手には、薬指と小指が無 い。だが、彼女は全くそれを隠すような素振りは見せず、その手は、自由に空間を踊った。そして、筆者は、彼女の話に聞き入っているうちに、欠けた物がある からこそ、かえってその美しさが際立つのだと感じ始めていた。
普段、ほとんど、家に閉じこもって生活をしているというその女性は、ようこの話の後に、「窓と鍵」の雑誌を拾った時の事を、その人と交わらぬ生活ぶりとは裏腹に、率直に語ってくれたと思う。
「そう、『窓と鍵』でした。私は、その雑誌を、塾の帰りに通りかかった公園で拾ったのです。中学2年生だったと思います。『窓と鍵』という題名 も、平凡な二色刷りの表紙も、扇情的なものはなにもなくて・・・・・・。私は、つい『あ、雑誌が落ちてる。なんだろう』程度の認識に引かれて、公園に入り 込んでしまいました。そして、何の警戒心も無くその場で、拾い上げた雑誌のページをめくってしまったのです。後から思うと、どうしてそんなことしてしまっ たのか、どうしても分かりませんでした。落ちているものを拾うなんて・・・・・・でも、その時は、なんとなく、ただふらふらと、そうしてしまったんです。
けれど、色刷りのページを開いた途端に、私の喉は、驚きのあまり、締め上げられるような呻き声をあげてしまいました。大慌てで、ぱたんと音を立 てて雑誌を閉じた後も、物凄く悪いことをしている所を見つかった気分に襲われ、おそるおそる、周囲を見回さずにいられませんでした。
夕暮れの公園には人影もなく、公園の周囲は、木が生い茂り、たとえ、周囲の家の窓から誰かが覗いていたとしても、何も目撃する事は、できないと思われました。
でも、もし、ここにこの雑誌がある事を知っていた人がいたら。私が、公園に入り込んで、出てきた時に、雑誌が無くなっていることに気づいたら。 持っていったのは、あの中学生の女の子に違いないと分かってしまう。どうしよう・・・・・って、思ったのを覚えています。そんな事、だれにも、知られてい るはずもないのに・・・・・。でも、そう思うだけで、私は、かあっと顔が熱くなり、震える手でその雑誌を塾のバックの中に大急ぎで突っ込むと、足早に家 に、逃げ帰ったのでございます。
その夜、家人が寝静まってから、布団の中に学習用のスタンドを引き込んで、息を殺してむさぼるように雑誌を読んだのを覚えています。頬のすぐそばにあった、蛍光灯のランプが、すごく熱くて、湿った身体を動かそうとする度に、汗で張り付いた肌が、いやらしく音を立てるんじゃないかと思いました。
その雑誌は、今で言えばSM雑誌と、人に呼ばれる種類のものだったと思います。けれど、私は、そういう事だけを集めた雑誌の存在を、よく知りませんでした。断片的にしか知らなかった、赤裸々な男女の交わりだけでなく、嫌がる女を縛って無理矢理に犯したり、鞭で打ち据えたり、果ては、たくさんの人達 の前で辱めたりするような絵や小説が沢山載っていました。
それから、淡々と、まるで科学の実験レポートのように、蝋燭の温度や、縄の手入れの方法を説明しているページもありました。女性はそこでは、実 験の道具で、物のように扱われるのです。その合間には、白黒で刷られた、海外の絵と覚しき拷問図が散りばめられていて、数々の拷問を受け続けていて、私 が、ページをめくる度に、囲まれた壁に悲鳴を響き渡らせていました。
その雑誌は、私が今まで、自分の中に見つけ、扱いかねていた欲望を全て、余すこと無く、誰の目にも分かる形で、描いた雑誌だったのです。」
(つづく)
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[22] 2014年09月15日 02:29
さやか
そこで、彼女は、ほうっ・・・・・・と、ため息をついて、もう一口紅茶をすすろうとしたが、カップの中は空っぽだったので、自分で、ポットを引き寄せて、私と自分のカップにおかわりの紅茶を注いだ。指が無くても、動作に不自由さは無く、それでもやっぱりその欠けた部分を、筆者は、無作法にも、じっと見 つめずにはいられなかった。
「この、指。気になりますか。これは、昨年、包丁で、うっかり、切り落としてしまったのです。」
筆者は、思わず首を横に振って、気にならないと応えてみたものの、その瞬間に、彼女の着ている襟が隠しきれずに、変色した打ち傷の痣を覗かせているのに気がついた。そして、彼女自身も多分、筆者がそれに気が付いた事に、気がついた様子で、ふっ・・・・・と視線を逸らした。
「私が、初めて、そういう行為がこの世の中にあるという事を知ったのは、高校の国語教師だった叔父の家に、しばしば遊びに行き、泊まるように なったせいでした。叔父は、壁一面を、たくさんの難しい本で埋め尽くした書斎を持っており、遊びに行くと、私は、その部屋に布団を敷いて寝かせられていたのです。
小学3年生でした。こんな子供が、小さな字でいっぱいの文学全集や学問の本や、大人用の雑誌の中から、砂浜に落ちている、埋もれかけている桜貝 のようなささやかな存在である、可逆被虐のシーンを探し、隠れて読んでいるなどと、大人たちは、誰も想像していなかったに違いありません。
私は、私の胸に響くシーンを追い求め、文学全集から、推理小説まで、並んでいる本を次々と漁りました。とにかく、無理やり酷いことをされる女性を描いている部分が好きだったのです。恐怖に頬を引きつらせ、涙ながらに懇願し、許しを請い、逃げ惑い、悲鳴をあげ、痛みに身悶えする女達が表現されてい る部分が・・・・・・。
それから、私は、本屋に行くと、それらしい記述のある本を探すようになりました。けれど、何しろ小学生ですもの。持っているお小遣いも少なく、ヌードグラビアが載るような雑誌に近づくなんて、到底出来るはずもありません。私は、文庫本のコーナーを行ったり来たりして、ようやく、文庫本になっていた、海外の官能文学を手に入れました。
そして、白黒の挿絵がわずかばかりに入っているだけの、文字の連なりの中に、恋焦がれる行為をみつけ、戒めを解こうと必死になって、身をもがく女達を探しだしました。優等生の仮面を被ったまま、その子供が読むのは禁止されていると思われる一瞬、一瞬を愛で、繰り返し、繰り返し、心の中で思い巡ら し、身のうちにふつふつと滾るものを抱えて、生きておりました。
ですから、「窓と鍵」を、布団の中で読んだ夜は、私にとっては、到底忘れられない夜になったのです。今まで見てきた、白黒の抽象化された挿絵 や、時代小説の中に時折現れる責め折檻とは違って、そそけだつ産毛すらも見えるかのように克明に描かれた女性が、乱れた着物をはだけたまま、眉を寄せた辛そうな表情で床の間に縛られて晒されている絵やあられもない姿で男たちに責めさいなまれている様が並んでいました。また、物語の中で、ただそれだけが目的の物語の中で、延々と、悲鳴をあげ、涙を流しながら、身をくねらせる様が克明に描かれていたのです。
今まで、飢えながら、あちこちを探しても、得られなかったものを見つけた喜びと、明らかにいけないことをしているに違いないと思う確信に、私の胸は高鳴りました。
そして、何度も何度も、読み返すうちに、私の身体は熱く火照り、自分の手で、どこかに、振れることも恐ろしいほどに敏感に、むき出しになってい きました。それは、ただ、身体だけの事では、ありません。心もそうでした。蓋を締めてしまい込み、見つからないように、時々こっそりと覗き込み、楽しんで きた、いけない禍事の中に、私の想いはどっぷりと浸かりきり、固く結び付けられてしまいました。今までの飢えを満たすかのように、何度も何度も、頭から泉 に顔を突っ込むようにして、淫楽の泉から水を飲み干していました。」
(つづく)
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[24] 2014年09月15日 02:37
さやか
「今では、私も大人になり、いつしか、身体の関係があるような恋人とも、何人もおつきあいした事もございます。
昔に比べて、そのような本もビデオも、簡単に手に入るようになりました。ただ、私が大人になっただけかもしれませんが。でも、どんな雑誌でも、本でも、「窓と鍵」のように、何度も何度も、繰り返し舐めるように読むような事はありませんでした。
それから、始めは緊張しましたけれど、それこそ清水の舞台から飛び降りるようなつもりでIDカードがないと入店できないようなお店にも、行った 事もございます。思いの外、店員さんも、常連のお客さんも、フランクで、まるで、行きつけの喫茶店でも出来たような気軽さで、そのお店に通っていました。 お恥ずかしい事でございますが、服こそは脱ぎませんでしたけど、親しくなった方に縛ってもらった事もございました。そういうお店に来るお客さんは、大抵だ れでも縄を自由に操ることができて、紳士的で、優しいのです。身体をいやらしく撫で回すこともなく、いきなり服を引き裂いたりもしません。
でも、そういう場所では、私は、布団の中に隠れて、あの本をこっそりと読んでいた時のような喜びは、一度も感じたことはございません。実際に、 縛られて自由を奪われているはずなのですけれど、男性は、決して私の嫌がることはせず、その行為に慣れきった他のお客たちは、隅っこで、そんなみだらがま しい事をしている私たちを、いやらしくジロジロと見ることもありませんでした。
あの店は、安全でした。女性にとっては、限りなく。そして、そこで飲む水はまるで、濾過されてしまった、味の全くしない水道水のよう・・・。不純物はまるで入っていないかけれど、喜びのかけらも見つけることはできないのです。
だからいつの間にか、自分が、あの本を無くしてしまった事に気がついた時は、わたくし、本当に悲しくて、悲しくて・・・・・・。いつまでも塞ぎ こんでしまい、諦めきれませんでした。それを失ってしまったと思っただけで、もう、なにもかもどうでもいい・・・・・・って、思えるくらいに。」
話が終わって、彼女が立ち上がった時、どこかで鈴の音が鳴った。筆者は、猫がいるのかと、思わずテーブルの下を覗きこんだけれど、そんなものが いるはずもなく、目の前にあるのは、彼女のむき出しの足首だった。その足首の周囲は、どこか、痛々しく、青黒く変色していて、少し凹んでいるような気がし た。
「ふふふ・・・。」
彼女が笑ったような気がして、筆者は、はっと姿勢を正した。自分が、女性に取っては失礼なことをしてしまったという意識があったせいか、いつもは無遠慮に、根掘り葉掘り質問を重ねる唇は、気の利いた挨拶を述べることも、うまくいかないかった。
喫茶店の前で、彼女と別れた。彼女を見送りながら、筆者は、思わずため息をついてしまっていた。なぜか、つきものが落ちた瞬間のように、だるく、力が入らなかった。
指って、包丁で、うっかり、切り落とせるようなものなじゃないよな・・・・・・。
筆者は、彼女を追いかけて行って、もっと、色んな話を聞くべきだ・・・・・・と、自分を叱咤してみた。けれど、その足は、意に反して、地面に張り付いたように動かなかった。