★新館・旧館・別館の構成★
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性的、暴力的な表現を含んでいます。
虚構と現実の区別のつかない方
18歳未満の方はご遠慮くださいませ。
自己責任に於いて閲覧していただきますようお願いします。
病院の白いベッドは、失ってしまった昨日のように現実感がなかった。点滴を二本打って、やっと、顔色が戻って起き上がった瑞季は、ひどく不思議そうな表情で僕を見た。その、あまりに素直な凝視に僕はたじろぎ、怯んだ。
「あなた……だれ?」
足元が崩れ落ちるとは、こういう事を言うんだろうか。何と答えていいか分からず、問い返す言葉も無かった。
ナ―スコールのボタンを探る手は震え、その間も現実に起っている事を認めたくない気持ちが沸々と沸きあがってくる。自分の行動の何が悪かったのか、何が引き金になってしまったのか、分からない問いを繰り返し、その前後の映像がグルグルと頭の中を廻る。
起きた事実は嘘のように頼りなく薄靄がかかっている。巻き戻せるものなら昨日の朝へ戻ってやり直したかった。
慌ただしく医者と看護婦が駆けてきて、彼女の状態を確認した。脈を取り、瞳孔をライトで照らす。状況の分かっていない彼女は、医者の手にかすかに抗った。思わず医者の身体を掴んで彼女から引き剥がしそうになって、自分の手を握り込み、三つ数えてから後へ下がった。
そうして、もどかしいいくつもの質問を繰り返し分かった事は、昨日までは確かに僕一人の恋人だった彼女が、きれいさっぱり、両親が亡くなった後の記憶を失っている事だった。自分が会社を興した事も、真樹のことも、館で過ごした時間も、そして僕が彼女に仕えたあの三年間も。
自由に美しく咲き開いた花のようだった瑞季にとって、それほどに両親の死は辛いものだったのだろうか。考えもしなかった事態。しかし、いくら否定してみても変えようの無い事実だった。
ガウンの襟元を掻き合わせながら、僕のたどたどしい説明を聞く瑞季は、心ここにあらずと言った様子で頼りなく周囲を見回している。やがて、前後のいきさつを聞き終わると、再び、困ったように僕の顔を見つめた。
「つまり、あなたは私の秘書って事?」
「ええ、そうです」
医者が、彼女の身体に屈み込む。カルテを抱えた看護士は、心配そうに眉を寄せていた。他人がいる場所での僕の説明は、最短距離で、本来のプライバシーの部分は、ほとんど入っていなかった。
実際の所、彼女自身にとっては、失われた記憶を惜しむ必要はなにもない。彼女の記憶は、まだ生々しい両親の死のから連続して今現在につながっていた。その悲しみに比べれば、記憶の喪失について熟考出来る状態でないのは明らかだった。
「高月さん。あまり、御心配なさらないように。こういう健忘はよくあることなんですよ。ちょっとしたショックかなにか…些細なことでも、ええ。記憶がとんでしまう事は珍しいことじゃありません。徐々に思い出されますよ。とにかく、CTスキャンを取ってみましょう。頭を打ってらっしゃると困りますからね」
医者の穏やかな言葉に瑞季は機械的にうなずいていた。僕自身は、自分自身の墜落感になんでもないふりをして立っているのがやっと、という有様だった。これは、いったいどういう現象なんだ。酷い目にあった記憶が戻って来て、ゆきが失われると共に、瑞季も失われてしまったのだろうか……。
いや、瑞季はそこに座っている。
失われたのは、僕達の関係だった。
医者の目配せに応えて、瑞季を看護士に任せて部屋を出た。
「高月さんは、いままでになにか精神的な症状のある罹患があったのでしょうか」
迷ったが、黙っていると混乱を招くばかりだろう。僕は、彼女のトラウマの話を医者にした。医者は、すぐに僕の言葉を遮ると、僕を自分の机のある個室へ案内してくれた。部屋は、患者がリラックスして打ち明け話が出来るように、落ち着いた調度で整えられていて、僕はようやくわずかばかり緊張を解いて、椅子に深く腰掛けた。
「二つの人格……。そうですか」
医者は、銀色のメガネの中央を押し上げながらカルテになにか書いている。
「解離性障害について、なにか、ご存知ですか?」
「ええ。多少は。ネットで調べたり、本を読んだぐらいの事ですが……」
「この症状はまだ、分からないことが多い。それに治療法も確立されていません。お話を伺う限り、彼女が回復して人格の融合が始まったとも思えます。また、そうではない可能性も検討しなくては……。ただ、もしこの記憶喪失が、外部からの刺激無しに起ったのであれば、段々と回復していくと思われますよ。サーモスタットのスイッチが入ったようなものですから」
受け入れられない過去の記憶の奔流を遮るために、意識的に記憶を閉じてしまう。そういうことだろうか。だが、なぜそれが、最近の記憶なのか。過去の事ではなく。分からないことがあまりにも多く、不確かな状況は不安を呼ぶばかりだった。だが、今すぐに僕にできる事は何も無い。ただ、瑞季の状態が少しでもよくなることを祈る以外には、なにも。
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「あなた……だれ?」
足元が崩れ落ちるとは、こういう事を言うんだろうか。何と答えていいか分からず、問い返す言葉も無かった。
ナ―スコールのボタンを探る手は震え、その間も現実に起っている事を認めたくない気持ちが沸々と沸きあがってくる。自分の行動の何が悪かったのか、何が引き金になってしまったのか、分からない問いを繰り返し、その前後の映像がグルグルと頭の中を廻る。
起きた事実は嘘のように頼りなく薄靄がかかっている。巻き戻せるものなら昨日の朝へ戻ってやり直したかった。
慌ただしく医者と看護婦が駆けてきて、彼女の状態を確認した。脈を取り、瞳孔をライトで照らす。状況の分かっていない彼女は、医者の手にかすかに抗った。思わず医者の身体を掴んで彼女から引き剥がしそうになって、自分の手を握り込み、三つ数えてから後へ下がった。
そうして、もどかしいいくつもの質問を繰り返し分かった事は、昨日までは確かに僕一人の恋人だった彼女が、きれいさっぱり、両親が亡くなった後の記憶を失っている事だった。自分が会社を興した事も、真樹のことも、館で過ごした時間も、そして僕が彼女に仕えたあの三年間も。
自由に美しく咲き開いた花のようだった瑞季にとって、それほどに両親の死は辛いものだったのだろうか。考えもしなかった事態。しかし、いくら否定してみても変えようの無い事実だった。
ガウンの襟元を掻き合わせながら、僕のたどたどしい説明を聞く瑞季は、心ここにあらずと言った様子で頼りなく周囲を見回している。やがて、前後のいきさつを聞き終わると、再び、困ったように僕の顔を見つめた。
「つまり、あなたは私の秘書って事?」
「ええ、そうです」
医者が、彼女の身体に屈み込む。カルテを抱えた看護士は、心配そうに眉を寄せていた。他人がいる場所での僕の説明は、最短距離で、本来のプライバシーの部分は、ほとんど入っていなかった。
実際の所、彼女自身にとっては、失われた記憶を惜しむ必要はなにもない。彼女の記憶は、まだ生々しい両親の死のから連続して今現在につながっていた。その悲しみに比べれば、記憶の喪失について熟考出来る状態でないのは明らかだった。
「高月さん。あまり、御心配なさらないように。こういう健忘はよくあることなんですよ。ちょっとしたショックかなにか…些細なことでも、ええ。記憶がとんでしまう事は珍しいことじゃありません。徐々に思い出されますよ。とにかく、CTスキャンを取ってみましょう。頭を打ってらっしゃると困りますからね」
医者の穏やかな言葉に瑞季は機械的にうなずいていた。僕自身は、自分自身の墜落感になんでもないふりをして立っているのがやっと、という有様だった。これは、いったいどういう現象なんだ。酷い目にあった記憶が戻って来て、ゆきが失われると共に、瑞季も失われてしまったのだろうか……。
いや、瑞季はそこに座っている。
失われたのは、僕達の関係だった。
医者の目配せに応えて、瑞季を看護士に任せて部屋を出た。
「高月さんは、いままでになにか精神的な症状のある罹患があったのでしょうか」
迷ったが、黙っていると混乱を招くばかりだろう。僕は、彼女のトラウマの話を医者にした。医者は、すぐに僕の言葉を遮ると、僕を自分の机のある個室へ案内してくれた。部屋は、患者がリラックスして打ち明け話が出来るように、落ち着いた調度で整えられていて、僕はようやくわずかばかり緊張を解いて、椅子に深く腰掛けた。
「二つの人格……。そうですか」
医者は、銀色のメガネの中央を押し上げながらカルテになにか書いている。
「解離性障害について、なにか、ご存知ですか?」
「ええ。多少は。ネットで調べたり、本を読んだぐらいの事ですが……」
「この症状はまだ、分からないことが多い。それに治療法も確立されていません。お話を伺う限り、彼女が回復して人格の融合が始まったとも思えます。また、そうではない可能性も検討しなくては……。ただ、もしこの記憶喪失が、外部からの刺激無しに起ったのであれば、段々と回復していくと思われますよ。サーモスタットのスイッチが入ったようなものですから」
受け入れられない過去の記憶の奔流を遮るために、意識的に記憶を閉じてしまう。そういうことだろうか。だが、なぜそれが、最近の記憶なのか。過去の事ではなく。分からないことがあまりにも多く、不確かな状況は不安を呼ぶばかりだった。だが、今すぐに僕にできる事は何も無い。ただ、瑞季の状態が少しでもよくなることを祈る以外には、なにも。
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瑞季の会社は、瑞季が親から譲り受けた遺産を、ただ寝かしておくのではなく、彼女の楽しみのために転がすために始まったという。社内の決定はすべて瑞季が行っていて、社員は要するに雑用をこなし、データを集め、彼女の指示に従うためにいた。三年前に僕が彼女の補佐的仕事をするために、秘書として引き抜かれて入社した時、会社は大きくなりかけていて、全体の業務を把握する人間は社長である彼女だけだった。決定権は彼女にあり、彼女はその決定を勘だけでこなしていた。そして、それが、この会社を、瑞季無しでは動かなくしていた。
すべてのデータを取り込んで、あらゆる彼女の判断を介助していた僕にさえ、彼女がいったいどういう根拠によってその判断を行ったのか、推測できないような速さで決断をくだし、次々に指示してくる。そして、その指示がとっぴであればあるほど、面白いように効果があがり、会社に利益をもたらして行く。
そのため、彼女が三日会社を休んだだけですぐに復帰すると言い出した時、誰もそれを止めようとはしなかった。医者も、特に気分が悪くなったりしなければ、普段どおりに過ごしてもいいと許可を出したせいでもある。もちろん、これほど責任とストレスの多い仕事だと理解していての指示だったのかどうかは分からないが。
彼女のいない会社の混乱を知り尽くしている以上、仕事を休む訳にはいかなかった。その三日の間、病院のベッドで彼女が一人でいるのを案じながら過ごした僕は、彼女が復帰すると言い出すとそれを止める事ができなかった。こんな状態を続けるくらいなら、すぐ傍で彼女の姿を見守りながら心配していた方が、まだましだと思ってしまったのだ。
そして、仕事に戻った瑞季は、三年間の記憶のエアポケットが判断に影響を与えている様子をまったく見せなかった。その三年間に自分がどういう風に仕事をしていたのか、調べながら、次々と次になすべきことを決めて行く。滞ったりもせず、スムーズな指示で、あっという間にこの三日で溜まった懸案も次々に片付けられて行く。
この結果は、今までの瑞季が経験やノウハウからで無く、感覚で仕事を切り回しているという僕の推測を裏付けるものだった。彼女が正しい判断を行えるように多岐に渡るデータベースを次々と調べて提示していくのが僕の役割だ。僕は出社しているほとんどの時間を彼女の側で過ごし、彼女の仕事をサポートし続けた。
だが、耐えられないほどに辛い仕事があるとすれば、まさにそれがそうだった。全く記憶のない彼女の側でただの部下として彼女を支えるという事が。僕は、他人の彼女の側で今までどおりに振舞う事が、彼女を抱いて自分のものにした至福の時間の後に、どれほど苦しいものか分かっていなかったのだ。ほんの一年前までは、当たり前のようにこなしていたその関係の一瞬一瞬が苦痛だった。
それに、僕が恋心をつのらせていた事を瑞季が知らなかったとしても、過去の僕達の間には上司と有能な秘書としての信頼関係があった。今の二人の間にあるのは「0」なのだ。それは、ただまっしろな何も無い空間だった。
部下なのだから呼び捨てにして欲しいと、言われて瑞季は会社の中では僕を東野と呼ぶ。呼ばれる度に僕の心臓は跳ね上がり、もしやの期待を抑えきれずに彼女を見てしまう。だが、そこにあるのは、僕の知らない無邪気な瞳であり、活き活きとした強い瞳の女性の瑞季を見つけることは適わなかった。
そんな繰り返しの一日の終りには、僕の気持ちは擦り切れて、瑞季を失ってしまったという暗い想いが胸を重く塞いで抜け出しようが無くなっていた。
「お車を正面玄関に廻しますので」
「和希はどうするの?」
「自宅に戻ります」
「一緒にマンションに来ないの?」
「ご一緒した方がよろしいですか?」
瑞季は小首を傾げて僕を透かし見る。自分がどうしたいのか。どうすべきか測りかねているのだろう。軽く左右に首を振ると溜息を付いて立ち上がった。
「今日は、いいわ。家に帰って。一人で考え事するから」
「分かりました」
来るなと言われても,来いと言われても、失望を感じてしまうというのはどういう心持なのだろう。少しでも離れていたくない気持ちとは裏腹に、少しだけ距離を置いて、少しだけ自分を取り戻す時間を切望する。失われたものを見つめ続ける時間が辛くないかと言われれば辛いに決まっているのだ。
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すべてのデータを取り込んで、あらゆる彼女の判断を介助していた僕にさえ、彼女がいったいどういう根拠によってその判断を行ったのか、推測できないような速さで決断をくだし、次々に指示してくる。そして、その指示がとっぴであればあるほど、面白いように効果があがり、会社に利益をもたらして行く。
そのため、彼女が三日会社を休んだだけですぐに復帰すると言い出した時、誰もそれを止めようとはしなかった。医者も、特に気分が悪くなったりしなければ、普段どおりに過ごしてもいいと許可を出したせいでもある。もちろん、これほど責任とストレスの多い仕事だと理解していての指示だったのかどうかは分からないが。
彼女のいない会社の混乱を知り尽くしている以上、仕事を休む訳にはいかなかった。その三日の間、病院のベッドで彼女が一人でいるのを案じながら過ごした僕は、彼女が復帰すると言い出すとそれを止める事ができなかった。こんな状態を続けるくらいなら、すぐ傍で彼女の姿を見守りながら心配していた方が、まだましだと思ってしまったのだ。
そして、仕事に戻った瑞季は、三年間の記憶のエアポケットが判断に影響を与えている様子をまったく見せなかった。その三年間に自分がどういう風に仕事をしていたのか、調べながら、次々と次になすべきことを決めて行く。滞ったりもせず、スムーズな指示で、あっという間にこの三日で溜まった懸案も次々に片付けられて行く。
この結果は、今までの瑞季が経験やノウハウからで無く、感覚で仕事を切り回しているという僕の推測を裏付けるものだった。彼女が正しい判断を行えるように多岐に渡るデータベースを次々と調べて提示していくのが僕の役割だ。僕は出社しているほとんどの時間を彼女の側で過ごし、彼女の仕事をサポートし続けた。
だが、耐えられないほどに辛い仕事があるとすれば、まさにそれがそうだった。全く記憶のない彼女の側でただの部下として彼女を支えるという事が。僕は、他人の彼女の側で今までどおりに振舞う事が、彼女を抱いて自分のものにした至福の時間の後に、どれほど苦しいものか分かっていなかったのだ。ほんの一年前までは、当たり前のようにこなしていたその関係の一瞬一瞬が苦痛だった。
それに、僕が恋心をつのらせていた事を瑞季が知らなかったとしても、過去の僕達の間には上司と有能な秘書としての信頼関係があった。今の二人の間にあるのは「0」なのだ。それは、ただまっしろな何も無い空間だった。
部下なのだから呼び捨てにして欲しいと、言われて瑞季は会社の中では僕を東野と呼ぶ。呼ばれる度に僕の心臓は跳ね上がり、もしやの期待を抑えきれずに彼女を見てしまう。だが、そこにあるのは、僕の知らない無邪気な瞳であり、活き活きとした強い瞳の女性の瑞季を見つけることは適わなかった。
そんな繰り返しの一日の終りには、僕の気持ちは擦り切れて、瑞季を失ってしまったという暗い想いが胸を重く塞いで抜け出しようが無くなっていた。
「お車を正面玄関に廻しますので」
「和希はどうするの?」
「自宅に戻ります」
「一緒にマンションに来ないの?」
「ご一緒した方がよろしいですか?」
瑞季は小首を傾げて僕を透かし見る。自分がどうしたいのか。どうすべきか測りかねているのだろう。軽く左右に首を振ると溜息を付いて立ち上がった。
「今日は、いいわ。家に帰って。一人で考え事するから」
「分かりました」
来るなと言われても,来いと言われても、失望を感じてしまうというのはどういう心持なのだろう。少しでも離れていたくない気持ちとは裏腹に、少しだけ距離を置いて、少しだけ自分を取り戻す時間を切望する。失われたものを見つめ続ける時間が辛くないかと言われれば辛いに決まっているのだ。
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果てのない失望の繰り返しの末に人は諦めを覚えていくものではないのだろうか。彼女の側で秘書として完璧なルーティンをこなしながら、僕は自分を納得させようと四苦八苦していた。彼女が記憶を失ったと知った病室でのあの瞬間に、僕は、何も考えずに彼女を抱き寄せるべきだったのだ。そうすれば少なくとも、彼女に僕が彼女の恋人だったと打ち明けるのはたやすかったのではなかろうか。
だが、僕はその時、躊躇ってしまったのだ。本当に、僕は、彼女の恋人と言えるのだろうか。僕は彼女を敬い、彼女に跪くべき僕(しもべ)なのではないか。だとしたら、それは一般社会に公にすべき立場ではなかった。彼女のためにもそれを医者の前で口に出しようがなかった。
僕は手を伸ばすのを躊躇った。そして、次の瞬間、すでに彼女にとっては、僕は見知らぬ男に落ち果てていた。まっすぐ僕を見つめた瞳がはっきりとそれを僕に教えた。
僕の事を知らない瑞季。
「あなた……だれ?」
だれ。だれ。だれなの。
「東野、アビスっていう会社の決算報告書を廻してくれない?」
記憶にあるものよりもずっと優しく柔らかい声が、一言々々を確かめるように指示を出してくる。記憶を失った瑞季は、まるでゆきのようにゆっくりとしゃべる。もっとも、はきはきとした大人の女性の話し方で、舌っ足らずな物言いは全く無かったが。
物思いは突然途切れ、僕は仕事中に余計な事を考えていた事に、心の中で舌打ちした。彼女の頭の回転に付いていくためには、一瞬の気の緩みも許されない。過去の蓄積したデータを演算する事で判断のよりどころとしている僕は、彼女の倍のスピードで先を行かなければ彼女の仕事に付いて行く事ができないのだ。
阿吽の呼吸で仕事をこなせるようになっていたとはいえ、今は、彼女の頭脳データベースの代わりを兼任しているために、気を抜くと彼女に必要な情報を読みそこないかねなかった。
「今、ファイルを送ります」
一心にディスプレイの中の画面をスクロールさせていた彼女が、ふと顔を上げて僕を見た。
「東野?あなた、疲れているんじゃない?」
いきなりの不意打ち。お互いの間にあったはずの距離を飛び越えて、気が付くと懐に飛び込んできている。驚いて、下がろうとしてもしっかりと掴まれていて、逃げようが無くなっている。息を吸い込んで、襲い掛かってくるデジャブを振り払った。
「いいえ。平気です。申し訳ありません、ちょっとぼんやりしておりました。指示された決 算書のファイルは、今送付しました。届きましたでしょうか」
「ええ、来たわ」
カチ、カチ、とクリックする音が響き、彼女はパソコンへ視線を戻した。僕はほっと息を付くと、アビスの関連会社についての情報をデータベースから検索し始めた。
「プリントアウトで欲しいわ。そっちで印刷できる?」
「できます」
すぐに、画面を起動させて印刷を始める。目の端に、立ち上がって窓辺へ移動する瑞季の姿が見えた。コツコツとハイヒールの音がして、ブラインドが巻き上がる。プリンターが音を立てて印刷した紙を排出し始めた。かすかな機械音だけが部屋の中に響く、僕はパソコンを覗き込む振りをして彼女の背中を見つめた。
腕を組んで、窓に寄りかかるようにして立つ彼女の背中。白いシャツに紺のタイトスカートという、シンプルな服装でいながら、ただ立っているだけでもあかずに見つめずにはいられない。
プリンターが止まると同時に立ち上がると、印刷された用紙をまとめて左肩をホチキスで留める。そのまま彼女の背中に近づいていく。
「ねぇ、東野。私、どうして記憶が戻らないんだと思う?」
「それは……」
くるり、と踵で廻った彼女は、僕の差し出した書類を見ないで受け取り、ちょっと眉を上げてみせる。
「記憶が戻らないと、東野は不便じゃない?」
心臓の鼓動が跳ね上がるのが分かった。彼女との距離は1メーター。手を伸ばせば届く距離だ。間近に覗き込む瞳が、僕を誘うかのように細められる。もう一ヶ月、彼女に触れていない。僕は考えも無しに動こうとする自分の身体を必死に押さえつけた。
世界があっというまに消滅し、瑞季の存在だけがくっきりと色が付いて迫ってくる。僕は表情を変えまいとして、ぱちぱちと瞬きをした。大丈夫です。不便などありませんよ。口を開けたのに、言うべき言葉が舌の上で凍り付いて流れ出てこなかった。思い出して。僕の事を思い出してください。
手を伸ばして瑞季の身体を引き寄せたい。腕の中に抱きしめたい。思いっきりきつく抱いて確かめたい。瑞季。僕の瑞季。お願いだから。幸せだと言って。記憶を無くす前よりも、今は幸せだと。でなければ僕は耐えられない。これほどのものを失ったのに。何も君に与える事が出来ないなんて。
震える手を必死に握り込む。ダメだ。出来ない。彼女にとって今や僕はただの秘書、ただの部下なんだ。どれほど愛おしく思っていても彼女の驚きを思うと、行動に出る事が出来なかった。
本当は彼女を揺さぶって聞いてみたかった。彼女がトラウマの記憶を思い出して、それが彼女の中にしっかりと根付いたのかどうか。ゆきと瑞季がひとつになって、今の新しい彼女になったのだという事を確かめたかった。だが、彼女から口に出さないのに、うかつに過去の話をして、もし、あの邂逅が一瞬のものだったとしたら。
彼女が再びあの記憶を封印してしまっているとしたら。そう思うと、うかつには何も言葉に出来ず、なにも行動に移せない。彼女の幸せを願うばかりに、がんじがらめになって立ち竦むだけ。
なにか、何かあるはずだった。このふさがった迷路を脱出する方法が。
書類をめくって読み始めた瑞季から1メーターの距離。これが、僕に許されたただひとつのものだとしても。瑞季、君を愛している
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マンションに戻って上着も脱がないうちに、電話が鳴った。ディスプレイにコウヅキの文字を確認して急いで受話器を持ち上げる。
「和希?」
「はい、どうなさいました?社長」
三ヶ月も経つのに、会社を出たとたんに僕を和希と呼ぶのはいったいどういう訳なんだろう。これは、僕にとっても不思議な事のひとつだった。
ゆきが僕を「かずき」と呼んでいた頃。僕は、それをひらがなのかずきと取っていた。どうしてなのかよくわからないのがいつの間にかそのイメージがすっかりと頭の中に定着して、疑問にも思わなかった。だが、今こうして瑞季に「和希」と呼ばれると、それが漢字だと分かる事に驚かすにはいられない。ゆきの「かずき」と瑞季の「和希」には、それだけのハッキリした差があった。
「今、時間があるかしら」
「はい、ございます。御用ですか?」
「う…ん。ちょっと聞きたい事があるの。マンションに来て欲しいんだけど…」
「分かりました。すぐに伺います。何かお持ちするものがございますか?」
「ううん。なにも…」
「30分で、家を出ます」
シャワーを浴びて、服を着替えよう。一日着ていたスーツのまま瑞季のマンションを訪ねたくなかった。説明できない理由から瑞季のマンションを訪ねるのを避けて過ごした三ヶ月。本当に久しぶりに彼女のマンションに行く事になって、落ち着かない思いの中、僕は身体を洗った。
ドアを開けた瑞季は、会社でのスーツを、柔らかく揺れるワイン色のワンピースに着がえていた。久しぶりに見るくつろいだ服装の彼女は、保つべき距離を見失わせて、僕は思わず歯を喰いしばって後ずさりしてしまう。瑞季の不思議そうな、戸惑った表情に慌てて気を取り直す。
「どうかなさいましたか?」
どうかしているのは、僕の方だった。
「和希…あのね」
瑞季は、スリッパを揃えて玄関に並べると、困ったように微笑んだ。
「ちょっと見て欲しいものがあるの…」
促されて僕は、彼女の後を付いて廊下を突っ切った。一番奥の寝室に続くドアを開けて瑞季は待っている。彼女の後から寝室へ入ってみると、寝室ともうひとつの部屋を分け隔てていた電動の格納壁が開け放されていた。寝室の中央に困惑して立っている彼女を見て、この三ヶ月、彼女はこの部屋を見たことがなかったのだと分かった。
「和希、この部屋は…なんだと思う?」
瑞季は、僕達がどういう形で愛し合って来たのか、綺麗さっぱり忘れてしまったのだから、この部屋の使い道がなんなのか、そして、この部屋で自分が僕に何をして来たのかも忘れてしまっているのだった。それを彼女の前でそれを説明する必要がある日が来るなんて。ああ、まったく。
顔を覆ってしまいたいくらいの羞恥が込み上げてくる。なぜだ。相手は瑞季なんだぞ。だが、この三ヶ月の間に必死で彼女との間に作ってきた距離が、僕に越えられない壁となっているのだった。
「SMルームですよ」
「え?」
「SM……ご存じないのでしょうか?」
「う…んと…鞭で叩いたりして喜ぶ…あれ?かしら」
「ええ、そうです」
なけなしの理性を掻き集め、息を整える。なんと彼女に説明するのか、胸の中へ手を突っ込み底までさらうようにして言葉を探す。
この三ヶ月間、どうしても打ち明けられなくて、必死に押さえつけ蓋をしてきた。本当の事を打ち明ける機会が向こうからやってきたのだった。今しかない。この機会を逃したら、もう二度と彼女に愛を打ち明けられないかもしれない。そう思うと躊躇ってはいられなかった。
「僕とあなたは、支配されるものと支配するものの関係を持っていたんです」
びっくりして見開かれる彼女のぽかんとした表情をみていると、笑い出したいような衝動が突き上げてくるのを感じた。いったいこれは、どういう冗談なのだろう?責められていた女性に、変態を見るような呆れ返った表情で見つめられるという事態は。
変態を見る…いや、違うな……。と、言うよりもまったく事態が理解できてないといった方が正しい。彼女の残った記憶の情報では、僕を縛ったり、吊るしたり、打ったりするという事が想像もつかないという事だけが分かった。
僕は覚悟を決めて部屋の中央へ進み、手を伸ばしてチェーンブロックを引き下げた。ガラガラと硬質な金属が触れ合う音を立てながら降りてくるチェーンブロック。普通の部屋に設置してあるにはあまりにも不自然で異様な、まがまがしい雰囲気を醸し出す機械。そしてその鎖を握りしめて立つ僕の姿が、部屋の奥の壁一面に貼りこまれた大きな鏡の中に映りこんでいた。
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「和希?」
「はい、どうなさいました?社長」
三ヶ月も経つのに、会社を出たとたんに僕を和希と呼ぶのはいったいどういう訳なんだろう。これは、僕にとっても不思議な事のひとつだった。
ゆきが僕を「かずき」と呼んでいた頃。僕は、それをひらがなのかずきと取っていた。どうしてなのかよくわからないのがいつの間にかそのイメージがすっかりと頭の中に定着して、疑問にも思わなかった。だが、今こうして瑞季に「和希」と呼ばれると、それが漢字だと分かる事に驚かすにはいられない。ゆきの「かずき」と瑞季の「和希」には、それだけのハッキリした差があった。
「今、時間があるかしら」
「はい、ございます。御用ですか?」
「う…ん。ちょっと聞きたい事があるの。マンションに来て欲しいんだけど…」
「分かりました。すぐに伺います。何かお持ちするものがございますか?」
「ううん。なにも…」
「30分で、家を出ます」
シャワーを浴びて、服を着替えよう。一日着ていたスーツのまま瑞季のマンションを訪ねたくなかった。説明できない理由から瑞季のマンションを訪ねるのを避けて過ごした三ヶ月。本当に久しぶりに彼女のマンションに行く事になって、落ち着かない思いの中、僕は身体を洗った。
ドアを開けた瑞季は、会社でのスーツを、柔らかく揺れるワイン色のワンピースに着がえていた。久しぶりに見るくつろいだ服装の彼女は、保つべき距離を見失わせて、僕は思わず歯を喰いしばって後ずさりしてしまう。瑞季の不思議そうな、戸惑った表情に慌てて気を取り直す。
「どうかなさいましたか?」
どうかしているのは、僕の方だった。
「和希…あのね」
瑞季は、スリッパを揃えて玄関に並べると、困ったように微笑んだ。
「ちょっと見て欲しいものがあるの…」
促されて僕は、彼女の後を付いて廊下を突っ切った。一番奥の寝室に続くドアを開けて瑞季は待っている。彼女の後から寝室へ入ってみると、寝室ともうひとつの部屋を分け隔てていた電動の格納壁が開け放されていた。寝室の中央に困惑して立っている彼女を見て、この三ヶ月、彼女はこの部屋を見たことがなかったのだと分かった。
「和希、この部屋は…なんだと思う?」
瑞季は、僕達がどういう形で愛し合って来たのか、綺麗さっぱり忘れてしまったのだから、この部屋の使い道がなんなのか、そして、この部屋で自分が僕に何をして来たのかも忘れてしまっているのだった。それを彼女の前でそれを説明する必要がある日が来るなんて。ああ、まったく。
顔を覆ってしまいたいくらいの羞恥が込み上げてくる。なぜだ。相手は瑞季なんだぞ。だが、この三ヶ月の間に必死で彼女との間に作ってきた距離が、僕に越えられない壁となっているのだった。
「SMルームですよ」
「え?」
「SM……ご存じないのでしょうか?」
「う…んと…鞭で叩いたりして喜ぶ…あれ?かしら」
「ええ、そうです」
なけなしの理性を掻き集め、息を整える。なんと彼女に説明するのか、胸の中へ手を突っ込み底までさらうようにして言葉を探す。
この三ヶ月間、どうしても打ち明けられなくて、必死に押さえつけ蓋をしてきた。本当の事を打ち明ける機会が向こうからやってきたのだった。今しかない。この機会を逃したら、もう二度と彼女に愛を打ち明けられないかもしれない。そう思うと躊躇ってはいられなかった。
「僕とあなたは、支配されるものと支配するものの関係を持っていたんです」
びっくりして見開かれる彼女のぽかんとした表情をみていると、笑い出したいような衝動が突き上げてくるのを感じた。いったいこれは、どういう冗談なのだろう?責められていた女性に、変態を見るような呆れ返った表情で見つめられるという事態は。
変態を見る…いや、違うな……。と、言うよりもまったく事態が理解できてないといった方が正しい。彼女の残った記憶の情報では、僕を縛ったり、吊るしたり、打ったりするという事が想像もつかないという事だけが分かった。
僕は覚悟を決めて部屋の中央へ進み、手を伸ばしてチェーンブロックを引き下げた。ガラガラと硬質な金属が触れ合う音を立てながら降りてくるチェーンブロック。普通の部屋に設置してあるにはあまりにも不自然で異様な、まがまがしい雰囲気を醸し出す機械。そしてその鎖を握りしめて立つ僕の姿が、部屋の奥の壁一面に貼りこまれた大きな鏡の中に映りこんでいた。
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彼女は目を見開いたまま、僕を声も無く見つめている。ごくりとその喉が鳴り、彼女が覚束ない情報を繰り合わせて、そのシーンを想像している事が分かった。慣れ親しんで、彼女に対してあまり感じなくなっていた、最初の頃の羞恥が蘇ってきて、僕はいたたまれなさに身じろぎする。
彼女は寝室からゆっくりとこちらの部屋の中へ入ってきた。その移動をじっとみつめていた僕の視線も彼女と共に移動し、やがて床の上を這い、窓際に置かれた贅沢なロココ様式の寝椅子へ突き当たった。
彼女は優雅なしぐさでスカートを広げそこに座った。斜めにながした脚の膝のうえにちょこんと揃えられた白いしなやかな掌。まっすぐに伸びた背筋と少しだけ傾げられた首。パッチリと見開かれ、物問いたげに向けられる瞳はなんの躊躇いも無くまっすぐに僕をみつめてくる。
「どんなことするの?」
不意を付かれてうろたえた。顔がかあっと熱くなって上気したのが分かった。彼女にも分かっただろう。眉がほんの少し上がり、傾げられた首の角度が深くなる。それが、一層の羞恥を呼び覚まして、僕は彼女と視線を合わせていられなくなって、急いでそれを逸らした。
その先に壁一面の鏡が曇りひとつ無く磨き上げられて僕の視線を待っていた。鏡の中に真っ赤になった自分の姿が映っている。そして、不思議そうにみつめてくる彼女の姿も。
目を閉じて、その視線を閉め出した。大きく息を吸って、呼吸を整える。落ち着くんだ。相手は瑞季なんだぞ。恥ずかしがる必要がどこにあるんだ。
いくら、言い聞かせてみても、羞恥は去っていかなかった。だが、彼女はじっと待っている。ここで、逃げ出す事になんの意味があるんだろう?それとも、恥ずかしさを堪えて、すべてをうちあける事に何の意味があるのかというべきなのか。いや、意味はある。1メーターの距離を越える事のできるただひとつの方法。
「服を脱ぐ……。あなたの前で」
迷いを振り捨てて、説明を始める。どう表現するのがいいのか、全く見当も付かなかった。
「全部?」
「ええ、全部です」
「恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいですよ」
瑞季は、僕の顔をじっと見つめていた。見られている事を意識すればするほど、羞恥心が強く湧き上がってくる。我ながらどうしようもなかった。
「それから?」
「ああ、それから……」
それから?それからどうしたっけ?日々違う行為を説明するのにどうすればいいのだろう?そう、初めての時、彼女は僕に、自慰を命じた。
「たとえば、自分で自分を慰める」
顔を上げると、面白そうに目だけが笑っている瑞季の顔とまともに視線が合ってしまった。僕は、その目をしっかりと見つめ返す。瑞季。瑞季。そこにいるんだろう?いるといってくれないか?
「オナニーするのね」
「そうです」
「それから?」
それから……。
僕の思考は、過去に繰り返された行為の上を彷徨う。彼女の前で何をした?服を脱いで、全裸になって、自分の手をその屹立に這わせて、擦って昂らせる。
「あなたは逝く事を許してくれない」
「ふうん…」
「だから、直前で、ぎゅっと握りしめて…逝くのを堪えるんです」
「苦しくないの?」
「苦しいですよ」
「……そうされるといいの?」
え?彼女が訊いた事が自分の脳に沁み込み、染み渡り、理解できるまで数秒を要した。いいって。いいんだろうか。それは、彼女が望んでいるから。彼女に命令されたから。彼女に求められた行為だから。はっきり言って鞭で打たれるほうがずっとましなような気がしていた。何度も何度も繰り返される射精の直前で停止される快楽の高まりは、苦しみと焦燥の方が強い……。
そうだろうか。本当にそこにあるのは苦しみだけなのか。彼女の前で自分のすべてをさらけ出し、快楽と苦しみの狭間で身もだえするしかない自分を見せるのは、彼女のためだけだったのだろうか。自分の欲望や、自分の欲求はひとつも無かったと嘘偽り無く言えるのだろうか。
彼女に見つめられること。求められる事。愛されている事を確認する事。彼女を満足させる事。彼女を喜ばせる事。弱い自分を隠さない事。それを認めてもらう事。ぎりぎりの苦痛を、ぎりぎりの苦しみを彼女に捧げる事。
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彼女は寝室からゆっくりとこちらの部屋の中へ入ってきた。その移動をじっとみつめていた僕の視線も彼女と共に移動し、やがて床の上を這い、窓際に置かれた贅沢なロココ様式の寝椅子へ突き当たった。
彼女は優雅なしぐさでスカートを広げそこに座った。斜めにながした脚の膝のうえにちょこんと揃えられた白いしなやかな掌。まっすぐに伸びた背筋と少しだけ傾げられた首。パッチリと見開かれ、物問いたげに向けられる瞳はなんの躊躇いも無くまっすぐに僕をみつめてくる。
「どんなことするの?」
不意を付かれてうろたえた。顔がかあっと熱くなって上気したのが分かった。彼女にも分かっただろう。眉がほんの少し上がり、傾げられた首の角度が深くなる。それが、一層の羞恥を呼び覚まして、僕は彼女と視線を合わせていられなくなって、急いでそれを逸らした。
その先に壁一面の鏡が曇りひとつ無く磨き上げられて僕の視線を待っていた。鏡の中に真っ赤になった自分の姿が映っている。そして、不思議そうにみつめてくる彼女の姿も。
目を閉じて、その視線を閉め出した。大きく息を吸って、呼吸を整える。落ち着くんだ。相手は瑞季なんだぞ。恥ずかしがる必要がどこにあるんだ。
いくら、言い聞かせてみても、羞恥は去っていかなかった。だが、彼女はじっと待っている。ここで、逃げ出す事になんの意味があるんだろう?それとも、恥ずかしさを堪えて、すべてをうちあける事に何の意味があるのかというべきなのか。いや、意味はある。1メーターの距離を越える事のできるただひとつの方法。
「服を脱ぐ……。あなたの前で」
迷いを振り捨てて、説明を始める。どう表現するのがいいのか、全く見当も付かなかった。
「全部?」
「ええ、全部です」
「恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいですよ」
瑞季は、僕の顔をじっと見つめていた。見られている事を意識すればするほど、羞恥心が強く湧き上がってくる。我ながらどうしようもなかった。
「それから?」
「ああ、それから……」
それから?それからどうしたっけ?日々違う行為を説明するのにどうすればいいのだろう?そう、初めての時、彼女は僕に、自慰を命じた。
「たとえば、自分で自分を慰める」
顔を上げると、面白そうに目だけが笑っている瑞季の顔とまともに視線が合ってしまった。僕は、その目をしっかりと見つめ返す。瑞季。瑞季。そこにいるんだろう?いるといってくれないか?
「オナニーするのね」
「そうです」
「それから?」
それから……。
僕の思考は、過去に繰り返された行為の上を彷徨う。彼女の前で何をした?服を脱いで、全裸になって、自分の手をその屹立に這わせて、擦って昂らせる。
「あなたは逝く事を許してくれない」
「ふうん…」
「だから、直前で、ぎゅっと握りしめて…逝くのを堪えるんです」
「苦しくないの?」
「苦しいですよ」
「……そうされるといいの?」
え?彼女が訊いた事が自分の脳に沁み込み、染み渡り、理解できるまで数秒を要した。いいって。いいんだろうか。それは、彼女が望んでいるから。彼女に命令されたから。彼女に求められた行為だから。はっきり言って鞭で打たれるほうがずっとましなような気がしていた。何度も何度も繰り返される射精の直前で停止される快楽の高まりは、苦しみと焦燥の方が強い……。
そうだろうか。本当にそこにあるのは苦しみだけなのか。彼女の前で自分のすべてをさらけ出し、快楽と苦しみの狭間で身もだえするしかない自分を見せるのは、彼女のためだけだったのだろうか。自分の欲望や、自分の欲求はひとつも無かったと嘘偽り無く言えるのだろうか。
彼女に見つめられること。求められる事。愛されている事を確認する事。彼女を満足させる事。彼女を喜ばせる事。弱い自分を隠さない事。それを認めてもらう事。ぎりぎりの苦痛を、ぎりぎりの苦しみを彼女に捧げる事。
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「それからどうするの?」
「あなたは僕を枷に繋ぐ」
「鞭で打つために?」
「ええ、そう……」
逃げようが無く引き伸ばされた身体の、くぼみを乗馬鞭が這っていく様が蘇ってくる。
もう、どれだけの間、あの感覚を味わっていないのだろう。色が無くなり、周囲の音が消えて行く、身体の中の感覚だけを追うような、苦痛を待つ不思議な期待と不安の交じり合った瞬間。鞭の先の舌が身体を這い回る時の、苦痛の予感を上回る快感を。
身体中がむずむずと痺れ、叫びだしたくなるようなうねりが高まってくる。打たれることへの恐れよりも、苦痛への忌避よりも、ただ待ち焦がれる欲望よりも、帰結である強い痛みへの終着を待ち望む時間。
そして、鞭が振り下ろされ、焼け付くような痛みに身体が捻れる。
今、打たれたその場所を彼女が鞭で軽く叩く。もう一度この場所をこれから打つのだと予告するために。
……パン。……パン。………パン。……パン。…パン。……パン。パン。
間隔が縮まり、少しずつ打ちつける力が増して行く。その次の鞭の予告をじっと味わいながら、さっき与えられた痛みを反芻する。同じ場所を二度打たれると最初の時よりも痛い。その瞬間を息を詰めて待つ。いつ来るか分からない気まぐれな鞭を。
……パアアアアアァンン………。
乗馬鞭の音は、乾いていて鋭い。部屋に反響するその音と共に、身体を鋭く切り裂く熱い痛みに仰け反る。そしてまた同じことの繰り返し。三度目の鞭も同じ場所に来ると知った時の、暗い絶望と、繰り返される耐える気持ちを削いで行く様な予告に、思わず呻き声が洩れる。
……ピシャアアアアアァンン………。
痛みに噴出す汗に、鞭音が湿ってくる。歯を喰いしばり身をもがかせないと耐えられない苦痛。波状に襲ってくる、逃れたいと思う衝動を押さえつけながら、次の鞭が来るのをただじっと待つ。
「痛くないの?」
「ああ、痛いですよ」
「痛いのが好きなの?」
今度は、予感がしていたからうろたえずにすんだ。
「好きじゃありません」
瑞季は目を見開いて見せて、それから椅子に斜めに座りなおした。
「好きじゃないのにどうしてそんなことするの?」
「ああ…だって…」
あなたが望むから。
あなたが僕の苦痛を望むから。
僕は、チェーンブロックから手を離して、彼女の方へ近づいた。一歩一歩確かめるようにゆっくりと、そして寝椅子の背もたれに手を掛けて、彼女の顔を覗き込んだ。
「あなたはそれが好きでしょう?」
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二人の間にぬっと現れた現実に彼女がたじろぐのが分かった。この関係が、彼女が望んで始まったものだという事実。男を裸にして、鎖に繋ぎ、鞭で打つのが、瑞季の好みなのだという事実が。
「私がそれを好き?」
「ええ、そうですよ」
「和希は好きじゃないの?」
「僕は、あなたが好きなんですよ」
瑞季がその言葉を噛み締めるように反芻したのが分かった。
「もう一度言って」
僕は、一瞬、彼女の気持ちを読みとろうとその瞳を覗き込み、自分のもどかしい感情を押し殺すと口を開いた。
「ずっとあなたが好きでした」
「今も?」
「もちろん」
「これからもずっと?」
「ええ、これからもずっと」
「記憶が無くても? 」
和希の事を覚えて無くても?
和希を愛していなくても?
ああ…。言わないでください、瑞季。分かっていても、辛い。あなたが僕を忘れてしまった事。僕への気持ちを失ってしまった事。僕達のつながりが失われてしまった事。
僕はいまでもあなたの側にいるのに、それに何の意味も無くなってしまったという事。その事を思い出させないで。今、この時。この部屋で。あなたの鞭を思い出しているこの時に。
僕は椅子の背もたれを掴む掌に力を込め、爪を喰い込ませた。洩れ出でようとする落胆の溜息を押し殺し、胸に付き刺さる鞭よりも強い苦痛を押さえつける。
「ええ、そうです。たとえ、あなたが忘れてしまっても、僕はあなたがずっと好きなんですよ」
瑞季、君を愛している。振り向いてくれなかった上司だった瑞季を。サディストだった瑞季を。ゆきだった瑞季を。僕を忘れてしまった瑞季を……。あなたが悪魔でも天使でも、僕はずっとあなたを、あなただけを好きなんだ。真樹が僕に突きつけた、一生切れないつながりが、僕と瑞季の間にも確かにあるはずだ。
どんな明日がやってこようと、僕は決してそれを失くしたりしない。あなたがくれたあの苦痛は、あの瞬間の僕だけのものだ。あなたがくれた幸せは、もう僕が受け取ったものである以上、たとえあなたにも取り上げたることは出来ない。僕はそれを忘れはしない。たとえあなたが忘れてしまっても、僕の事をもう愛していないとしても。僕達の関係が変わってしまったと言って、そのことをあなたが否定したとしても。
「じゃあ、脱いで見せて」
思いもかけない言葉に、再度、僕は息を呑んだ。すっかりと記憶が無い彼女がそんな事を言い出すなんて考えてもみなかった。口の中が急に干上がり、唾を飲み込むのも容易ではない。静まっていた羞恥が強く蘇って身体を熱くする。
全く知識が無く、それを求めてもいない女性の前で服を脱がないといけないという事実が僕をとまどわせているのだ。僕達の間では主導権はいつも瑞季の側にあった。僕は言われるがまま、彼女の望みどおりに振る舞い、自分の羞恥や苦痛を押し殺していさえすればよかったのだ。

彼女は瑞季なんだ。記憶が無いとしても瑞季である事に変わらないだろう?必死に気持ちを落ち着けると上着のボタンへ手を掛けた。片方ずつ腕を抜き、脱ぎ捨てる。一枚脱ぐごとに自分に言い聞かせながら。大丈夫。大丈夫。そうさ、耐えられるはずだ。耐えてみせる。それとも………僕は耐えられないのだろうか。
記憶の無い彼女の前で、痴態を示す事に。
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「私がそれを好き?」
「ええ、そうですよ」
「和希は好きじゃないの?」
「僕は、あなたが好きなんですよ」
瑞季がその言葉を噛み締めるように反芻したのが分かった。
「もう一度言って」
僕は、一瞬、彼女の気持ちを読みとろうとその瞳を覗き込み、自分のもどかしい感情を押し殺すと口を開いた。
「ずっとあなたが好きでした」
「今も?」
「もちろん」
「これからもずっと?」
「ええ、これからもずっと」
「記憶が無くても? 」
和希の事を覚えて無くても?
和希を愛していなくても?
ああ…。言わないでください、瑞季。分かっていても、辛い。あなたが僕を忘れてしまった事。僕への気持ちを失ってしまった事。僕達のつながりが失われてしまった事。
僕はいまでもあなたの側にいるのに、それに何の意味も無くなってしまったという事。その事を思い出させないで。今、この時。この部屋で。あなたの鞭を思い出しているこの時に。
僕は椅子の背もたれを掴む掌に力を込め、爪を喰い込ませた。洩れ出でようとする落胆の溜息を押し殺し、胸に付き刺さる鞭よりも強い苦痛を押さえつける。
「ええ、そうです。たとえ、あなたが忘れてしまっても、僕はあなたがずっと好きなんですよ」
瑞季、君を愛している。振り向いてくれなかった上司だった瑞季を。サディストだった瑞季を。ゆきだった瑞季を。僕を忘れてしまった瑞季を……。あなたが悪魔でも天使でも、僕はずっとあなたを、あなただけを好きなんだ。真樹が僕に突きつけた、一生切れないつながりが、僕と瑞季の間にも確かにあるはずだ。
どんな明日がやってこようと、僕は決してそれを失くしたりしない。あなたがくれたあの苦痛は、あの瞬間の僕だけのものだ。あなたがくれた幸せは、もう僕が受け取ったものである以上、たとえあなたにも取り上げたることは出来ない。僕はそれを忘れはしない。たとえあなたが忘れてしまっても、僕の事をもう愛していないとしても。僕達の関係が変わってしまったと言って、そのことをあなたが否定したとしても。
「じゃあ、脱いで見せて」
思いもかけない言葉に、再度、僕は息を呑んだ。すっかりと記憶が無い彼女がそんな事を言い出すなんて考えてもみなかった。口の中が急に干上がり、唾を飲み込むのも容易ではない。静まっていた羞恥が強く蘇って身体を熱くする。
全く知識が無く、それを求めてもいない女性の前で服を脱がないといけないという事実が僕をとまどわせているのだ。僕達の間では主導権はいつも瑞季の側にあった。僕は言われるがまま、彼女の望みどおりに振る舞い、自分の羞恥や苦痛を押し殺していさえすればよかったのだ。

彼女は瑞季なんだ。記憶が無いとしても瑞季である事に変わらないだろう?必死に気持ちを落ち着けると上着のボタンへ手を掛けた。片方ずつ腕を抜き、脱ぎ捨てる。一枚脱ぐごとに自分に言い聞かせながら。大丈夫。大丈夫。そうさ、耐えられるはずだ。耐えてみせる。それとも………僕は耐えられないのだろうか。
記憶の無い彼女の前で、痴態を示す事に。
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最後の一枚は彼女に背を斜めに向けて脱いだ。向き直る瞬間に、思わず目を瞑ってしまっていた。覚悟を決めたつもりで目を開いても、彼女の顔を見ることが出来ない。下着を服の上に投げ落とした後、両手の持って行き場に困惑して身動きが取れなくなってしまい、自分がどうしょうも無くあがっている事に気がついた。
お互いの間にある沈黙が、息をするのも不自由なほどに、僕の胸に迫ってくる。短く浅い息をつきながら自分の鼓動を数える。
上司の前で服を脱ぐ秘書。それが、彼女にとっての現在の僕の状況だった。そう思われているという事実が、いたたまれない気分にさせるのだ。ただ黙っている彼女の視線が、僕の身体の上を移動していく。ぴくん、と身体が反応して、恥ずかしさだけでなく興奮が高まってきている事を自分に教える。
「いい身体しているのね」
なんども身体を見せた相手なのに、改めてそう言われると、初めて彼女の前で服を脱いだように感じる。いや、まだ、初めてのときのほうがましだった。とにかく必死だったし、相手もなにもかも分かっていて僕に脱ぐように要求していたのだから
「いつも、スーツ姿だと分からなかった」
身動きが取れない。どうしていいか分から無くなって、初めて彼女の顔を見る。じっと見つめ返してくる彼女が見ているのは、僕の身体では無く表情だった。見透かされている。恥ずかしさに逃げ出したい僕の本心を。
「廻って背中を見せて」
もう一度ぎゅっと目を閉じてから、腕を頭の後ろに廻して組んだ。ゆっくりと身体を廻して背中をさらす。瑞季は僕の背中が好きだった。ベッドの中にいると、よく後から寄りかかってきては乗り上がって喜んだ。
掌で撫で回してうっとりと身体を摺り寄せてくる。彼女の肌が僕の身体にぴったりと押し付けられるその感触が蘇ってきて、僕はその思い出をむさぼった。目の前の鏡の中には素裸で首の後ろに手を組んだ僕を、寝椅子の背に片手を掛けて座って見つめている瑞季が映っていた。
「え……ぇと。和希。じゃ、やって見せてよ」
なにを?自慰を…。さっき、そう自分で説明したじゃないか。求められている事は分かっている。そんな時に自分がどうしたかも。ただ、黙って従う。息を吸い込み、ぎこちなく手を降ろす。
もう、一度彼女の方へ向き直ると、すべての情報を意識的に締め出して、自分の手をそこに添えた。考えるな。いや、考えるんだ。瑞季の望んでいる事だけを。彼女に求められた事だけを。右手をゆっくりと滑らせる。反対の左手をしたから添わせるようにして…。熱く燃える頬も、耳に響く自分の呼吸音も、震える身体も黙殺してただただ行為に没頭する。その行為を彼女に見せる事だけに。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……。
どれほど堅く目を瞑っていても、そのいやらしい音を消してしまう事は出来ない。ずっと長い時間ストレスと失望の中で迷走していた男としての本能が、いきなり現れた刻み込まれた被虐の習慣の中で暴走しはじめていた。彼女の前で自分を慰めて見せるという行為は、何度繰り返しても、自分の中を独り覗き込んでいるような気恥ずかしさを伴っている。相手ではなく、自分の中へ切り込んでいくような行為。
自分を煽る確かなテクニックのひとつひとつが、自分が男として生きてきた長い年月を彼女の前に露呈しているようでいたたまれない。力加減、指の使い方、身体の蠢きのひとつひとつが、自分がどれほど浅ましく、スケベな一匹の男でしかない事を示しているような気がする。普段はスーツに包み、彼女の前で澄ましかえっている自分の底の浅さを指摘されているような、そんな恥ずかしさを。
来る。長く続いた刺激の結果は、当たり前の高まりを持って、終盤を迎えようとしていた。立ったまま行われていたそれが、はじけてしまわないように僕は下腹に力を込めて前屈みになる。
「あ………う…ん……」
「ストップ」
ギクッと総身の血の気が引くのが分かった。聞き慣れた彼女の声に、失われてしまった愛が急激にその感情の縁を乗り越えて蘇り、限界に近づきつつあった僕のそれはあっという間にショックに萎えていく。僕は、その場に膝を付いて、自分の体液で濡れた手を拭うのも忘れて顔を押さえた。瑞季。瑞季。瑞季。いくら言い聞かせても、いくら言いつくろってもだめだ。僕の瑞季。僕の瑞季。どうして。どうして。どうして。僕を忘れてしまったんですか。
涙の滴が床に落ちた。
「和希?どうしたの?」
(東野…。東野どうしたの?)
あなたはもう、二人だけの時に、僕を東野と呼ばない。
「すみません……。今日は、もう……」
途端に自分がしゃくりあげてしまったことに気が付いた。なんてことだ。彼女の前で、手放しで泣くなんて。瑞季を不安にさせてしまう。慌てて甲を返してぐいっと涙を拭った。
じっとその様を見つめていた瑞季が立ち上がって側にやってくる。そして暖かな手がそっと肩に廻された。僕は溜息をつくと自分を偽るのをやめて目を瞑ってその腕の温もりに身体を預けた。
「ねえ、和希。私もあなたを愛していた?」
「ええ」
ええ……きっと。瑞季。あなたも僕を愛していてくれていたでしょう?
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お互いの間にある沈黙が、息をするのも不自由なほどに、僕の胸に迫ってくる。短く浅い息をつきながら自分の鼓動を数える。
上司の前で服を脱ぐ秘書。それが、彼女にとっての現在の僕の状況だった。そう思われているという事実が、いたたまれない気分にさせるのだ。ただ黙っている彼女の視線が、僕の身体の上を移動していく。ぴくん、と身体が反応して、恥ずかしさだけでなく興奮が高まってきている事を自分に教える。
「いい身体しているのね」
なんども身体を見せた相手なのに、改めてそう言われると、初めて彼女の前で服を脱いだように感じる。いや、まだ、初めてのときのほうがましだった。とにかく必死だったし、相手もなにもかも分かっていて僕に脱ぐように要求していたのだから
「いつも、スーツ姿だと分からなかった」
身動きが取れない。どうしていいか分から無くなって、初めて彼女の顔を見る。じっと見つめ返してくる彼女が見ているのは、僕の身体では無く表情だった。見透かされている。恥ずかしさに逃げ出したい僕の本心を。
「廻って背中を見せて」
もう一度ぎゅっと目を閉じてから、腕を頭の後ろに廻して組んだ。ゆっくりと身体を廻して背中をさらす。瑞季は僕の背中が好きだった。ベッドの中にいると、よく後から寄りかかってきては乗り上がって喜んだ。
掌で撫で回してうっとりと身体を摺り寄せてくる。彼女の肌が僕の身体にぴったりと押し付けられるその感触が蘇ってきて、僕はその思い出をむさぼった。目の前の鏡の中には素裸で首の後ろに手を組んだ僕を、寝椅子の背に片手を掛けて座って見つめている瑞季が映っていた。
「え……ぇと。和希。じゃ、やって見せてよ」
なにを?自慰を…。さっき、そう自分で説明したじゃないか。求められている事は分かっている。そんな時に自分がどうしたかも。ただ、黙って従う。息を吸い込み、ぎこちなく手を降ろす。
もう、一度彼女の方へ向き直ると、すべての情報を意識的に締め出して、自分の手をそこに添えた。考えるな。いや、考えるんだ。瑞季の望んでいる事だけを。彼女に求められた事だけを。右手をゆっくりと滑らせる。反対の左手をしたから添わせるようにして…。熱く燃える頬も、耳に響く自分の呼吸音も、震える身体も黙殺してただただ行為に没頭する。その行為を彼女に見せる事だけに。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……。
どれほど堅く目を瞑っていても、そのいやらしい音を消してしまう事は出来ない。ずっと長い時間ストレスと失望の中で迷走していた男としての本能が、いきなり現れた刻み込まれた被虐の習慣の中で暴走しはじめていた。彼女の前で自分を慰めて見せるという行為は、何度繰り返しても、自分の中を独り覗き込んでいるような気恥ずかしさを伴っている。相手ではなく、自分の中へ切り込んでいくような行為。
自分を煽る確かなテクニックのひとつひとつが、自分が男として生きてきた長い年月を彼女の前に露呈しているようでいたたまれない。力加減、指の使い方、身体の蠢きのひとつひとつが、自分がどれほど浅ましく、スケベな一匹の男でしかない事を示しているような気がする。普段はスーツに包み、彼女の前で澄ましかえっている自分の底の浅さを指摘されているような、そんな恥ずかしさを。
来る。長く続いた刺激の結果は、当たり前の高まりを持って、終盤を迎えようとしていた。立ったまま行われていたそれが、はじけてしまわないように僕は下腹に力を込めて前屈みになる。
「あ………う…ん……」
「ストップ」
ギクッと総身の血の気が引くのが分かった。聞き慣れた彼女の声に、失われてしまった愛が急激にその感情の縁を乗り越えて蘇り、限界に近づきつつあった僕のそれはあっという間にショックに萎えていく。僕は、その場に膝を付いて、自分の体液で濡れた手を拭うのも忘れて顔を押さえた。瑞季。瑞季。瑞季。いくら言い聞かせても、いくら言いつくろってもだめだ。僕の瑞季。僕の瑞季。どうして。どうして。どうして。僕を忘れてしまったんですか。
涙の滴が床に落ちた。
「和希?どうしたの?」
(東野…。東野どうしたの?)
あなたはもう、二人だけの時に、僕を東野と呼ばない。
「すみません……。今日は、もう……」
途端に自分がしゃくりあげてしまったことに気が付いた。なんてことだ。彼女の前で、手放しで泣くなんて。瑞季を不安にさせてしまう。慌てて甲を返してぐいっと涙を拭った。
じっとその様を見つめていた瑞季が立ち上がって側にやってくる。そして暖かな手がそっと肩に廻された。僕は溜息をつくと自分を偽るのをやめて目を瞑ってその腕の温もりに身体を預けた。
「ねえ、和希。私もあなたを愛していた?」
「ええ」
ええ……きっと。瑞季。あなたも僕を愛していてくれていたでしょう?
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彼女が僕の唇を親指でそっと押して開かせる。頭が傾けられ、柔らかでぷっくりとした彼女の唇がそっと触れてくる。僕のずっと押さえつけてきた欲望が、彼女の唇にふれた瞬間強く膨れ上がってきた。僕は夢中で手を伸ばし彼女のうなじを押さえつけた。軽く合わさった彼女の唇を追い求め、深く口づける。乱暴とも言えるほどに強く彼女の身体を引き寄せて抱きしめた。
彼女にフラッシュバックが起こって救急車を呼んだあの夜から、三ヶ月。行動しさえすれば抱きしめられる位置にいながら、決して触れられなかった彼女の身体が腕の中にあった。急激な墜落感覚と上昇感覚が入り混じって襲ってくる。むき出しの素肌に彼女の着ている服の布地が擦れ、自分が裸でいる事を思い出させる。理性をかき集め、無理矢理彼女から離れようとして、そのあまりの苦しさに呻いた。身体中の細胞が抑えがたく彼女を求めていた。
まずい…残り少ない理性は点滅し、彼女から離れろと警報を鳴り響かせた。触れ合ってしまえば、もう止まらなくなるのは分かりきっているのだ。彼女の身体を押しやろうとした僕のその動きを捉えて、彼女は僕の手首を握るとぐいっと後ろに引いた。
思いがけない彼女の動きに足がもつれて二人して寝椅子の上に倒れこんだ。結果として彼女を下敷きにしてしまい、その事に驚いて、僕が腕を突っ張って身体を起こそうとすると、その背中に彼女の手が廻されて僕が起き上がるのを引きとめようとするのが分かった。暖かく瑞々しい瑞季の唇が、吸い付くように押しつけられ、舌先が舌先をかすめていく。
驚きが僕の混乱と暴走しかけていた欲望を一瞬吹き払った。
目を見張った僕は、彼女の顔を覗き込み、彼女の考えている事を、彼女の表情から読み取ろうとした。
そうして、反対に、瑞季の真剣な瞳が、僕の考えている事を読み取ろうとしてまっすぐに注がれているのにぶつかった
「私達、セックスしていたのよね?」
ひっぱたかれたようなショックを受けてたじろいだ。そうして、ショックを受ける自分に戸惑う。この質問を予想していた?それとも予想しなかった?体が溶け合うほどに抱きしめあって、深いキスを交わした後に、セックスしていたか聞かれる事を?もう、逃げようがない。彼女の方が一枚上手。惚れ込みすぎた僕は、決して彼女に勝つ事ができない。
「ええ」
「……」
彼女が、取り込んだ情報を消化しようと、思考を巡らせている間、彼女の身体に体重を掛けない様に注意しながら、背もたれに腕を掛けて彼女の上から身体をずらした。自分の中で渦巻いていたどうしょうもない葛藤が、一瞬にして氷解し流れ出していくのを感じながら……。伝えなければいけないことは伝え、彼女はそれを受け入れようとしていた。
「なんで早く教えてくれないかな」
当たり前のように、普段のままの声だった。
「ベッドに行かない?」
「え?」
「ここじゃ、セックスしにくいし……」
「今からですか?」
「だって、和希はもう服も脱いでいるんだから……構わないでしょ」
「いや、でも……でも、瑞季は、まだ僕との事を、思い出してないんでしょう?」
瑞季は、不審そうな顔で僕をまじまじと見る。
「思い出してないと、セックスできないの?」
「いえ、僕は…」
馬鹿げたこだわりが、僕を彼女に触れるのを引き止めているのは分かっている。僕は、彼女に愛してもいない男と寝て欲しくないのだ。その相手がたとえ僕だとしても。
「和希って…」
くすくす…彼女が声を殺して笑ったのが分かった。僕は、覚悟を決めて起き上がり、彼女を引き起こした。
寝室へ戻ると、スイッチを押して、2つの部屋の電動の格納扉を閉じた。部屋の隅の小さなオレンジ色の照明を残して、すべての電気を消す。ベッドの上に座って、ワンピースを自分で脱ぎ始めた彼女の横に滑り込んだ時、彼女は足の方からドレスを抜き取ると、僕の方へ向き直った。
「思い出してなくてもいいわ。今の私が、和希を好きだから」
思い出さなくても、忘れてしまっていても、好きよ。和希が好き。たとえ生まれ変わって来ても、別の人生を送っていても、必ず私はあなたを好きになるでしょう。私がたとえ消えてしまっても、私が私で無くなったとしても、あなたがずっと私を忘れないでいてくれるように。私は、繰り返し、あなたを見つける。月のない夜に道を見失っても……必ずあなたという星を見つけてみせる。
ただ一言で、瑞季は、僕にその全てを伝えた。そうして、僕は彼女を僕の腕の中に取り戻した。
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彼女にフラッシュバックが起こって救急車を呼んだあの夜から、三ヶ月。行動しさえすれば抱きしめられる位置にいながら、決して触れられなかった彼女の身体が腕の中にあった。急激な墜落感覚と上昇感覚が入り混じって襲ってくる。むき出しの素肌に彼女の着ている服の布地が擦れ、自分が裸でいる事を思い出させる。理性をかき集め、無理矢理彼女から離れようとして、そのあまりの苦しさに呻いた。身体中の細胞が抑えがたく彼女を求めていた。
まずい…残り少ない理性は点滅し、彼女から離れろと警報を鳴り響かせた。触れ合ってしまえば、もう止まらなくなるのは分かりきっているのだ。彼女の身体を押しやろうとした僕のその動きを捉えて、彼女は僕の手首を握るとぐいっと後ろに引いた。
思いがけない彼女の動きに足がもつれて二人して寝椅子の上に倒れこんだ。結果として彼女を下敷きにしてしまい、その事に驚いて、僕が腕を突っ張って身体を起こそうとすると、その背中に彼女の手が廻されて僕が起き上がるのを引きとめようとするのが分かった。暖かく瑞々しい瑞季の唇が、吸い付くように押しつけられ、舌先が舌先をかすめていく。
驚きが僕の混乱と暴走しかけていた欲望を一瞬吹き払った。
目を見張った僕は、彼女の顔を覗き込み、彼女の考えている事を、彼女の表情から読み取ろうとした。
そうして、反対に、瑞季の真剣な瞳が、僕の考えている事を読み取ろうとしてまっすぐに注がれているのにぶつかった
「私達、セックスしていたのよね?」
ひっぱたかれたようなショックを受けてたじろいだ。そうして、ショックを受ける自分に戸惑う。この質問を予想していた?それとも予想しなかった?体が溶け合うほどに抱きしめあって、深いキスを交わした後に、セックスしていたか聞かれる事を?もう、逃げようがない。彼女の方が一枚上手。惚れ込みすぎた僕は、決して彼女に勝つ事ができない。
「ええ」
「……」
彼女が、取り込んだ情報を消化しようと、思考を巡らせている間、彼女の身体に体重を掛けない様に注意しながら、背もたれに腕を掛けて彼女の上から身体をずらした。自分の中で渦巻いていたどうしょうもない葛藤が、一瞬にして氷解し流れ出していくのを感じながら……。伝えなければいけないことは伝え、彼女はそれを受け入れようとしていた。
「なんで早く教えてくれないかな」
当たり前のように、普段のままの声だった。
「ベッドに行かない?」
「え?」
「ここじゃ、セックスしにくいし……」
「今からですか?」
「だって、和希はもう服も脱いでいるんだから……構わないでしょ」
「いや、でも……でも、瑞季は、まだ僕との事を、思い出してないんでしょう?」
瑞季は、不審そうな顔で僕をまじまじと見る。
「思い出してないと、セックスできないの?」
「いえ、僕は…」
馬鹿げたこだわりが、僕を彼女に触れるのを引き止めているのは分かっている。僕は、彼女に愛してもいない男と寝て欲しくないのだ。その相手がたとえ僕だとしても。
「和希って…」
くすくす…彼女が声を殺して笑ったのが分かった。僕は、覚悟を決めて起き上がり、彼女を引き起こした。
寝室へ戻ると、スイッチを押して、2つの部屋の電動の格納扉を閉じた。部屋の隅の小さなオレンジ色の照明を残して、すべての電気を消す。ベッドの上に座って、ワンピースを自分で脱ぎ始めた彼女の横に滑り込んだ時、彼女は足の方からドレスを抜き取ると、僕の方へ向き直った。
「思い出してなくてもいいわ。今の私が、和希を好きだから」
思い出さなくても、忘れてしまっていても、好きよ。和希が好き。たとえ生まれ変わって来ても、別の人生を送っていても、必ず私はあなたを好きになるでしょう。私がたとえ消えてしまっても、私が私で無くなったとしても、あなたがずっと私を忘れないでいてくれるように。私は、繰り返し、あなたを見つける。月のない夜に道を見失っても……必ずあなたという星を見つけてみせる。
ただ一言で、瑞季は、僕にその全てを伝えた。そうして、僕は彼女を僕の腕の中に取り戻した。
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