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 明け方の夢を膨らませて作った、切ないSMの物語


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性的、暴力的な表現を含んでいます。
虚構と現実の区別のつかない方
18歳未満の方はご遠慮くださいませ。
自己責任に於いて閲覧していただきますようお願いします。

 

 「くすぐり倶楽部」という風俗店の話をお耳にされたことがありますか?多分、ご存じない方の方が多いと思います。日本では「くすぐり」を愛好される方は、あまりいらっしゃいませんから。でも、このちょっと変わった遊びを好まれる方は、確実に存在します。
 実は、私は、その店のスタッフを務めております。60分20000円、90分26000円、120分で32000円。これが、思う存分、女の子をくすぐったり、くすぐられたりするのにかかる費用です。私は、くすぐるのが専門のスタッフです。自分がくすぐられると考えると、なぜかとても嫌な心地になってしまうので、そこは、ご遠慮させて頂いております。くすぐるのは本当に楽しいのですけれど。
 そして、不思議に思われるかもしれませんが、愛撫はとても、くすぐりに似ているのです。そのため、私はこの歳になるまで、男性と親しくお付き合いをしたことがございませんでした。そんな私が、その風俗店に行く事を考えたのは、お慕いする男性が出来たからなのでございます。今のままでは、その人に、想いを打ち明けることはおろか、側に寄ることも出来ないと考えたからです。
 その風俗店のお話は、私をご贔屓にしてくださるお客様から教えて戴きました。とても不思議なお店で、大きな団地街の一角にあり、風俗店なのに、まるで図書館のようにたくさんの蔵書が並んでいるのです。それも、天井まで届くような書架が、壁沿いにぐるりと回りを取り囲んでいます。入り口をくぐった途端に、別の世界へ迷い込んだような気がする場所でした。教えてくださったお客様は、私に、そこで自分の運命を見つけるように・・・と、おっしゃったのです。

 実際にプレイするのは2回目から。それがその風俗店の約束事でございました。予約した日に、駅からもう一度その団地に向かうバスに乗り、同じバス停で降りるのです。おかしく思われるでしょうが、くすぐりスタッフとして男性を手玉に取るような生業をしておりながら、受け身では、ほとんど何の経験もない生娘同然の身です。これからの事を考えると、緊張で冷や汗が出る思いでおりました。自分で押したのに、降車を告げるボタンのポーンという音に、びくっと、身を竦めてしまうほどでした。
 バスを降りると、先日訪ねた時とは、違う風景がそこに広がっておりました。思いつめておりましたので、もしかして違う停留所で降りてしまったのでしょうか。どこか懐かしく、夕日の似合う、昔からの木の家が並んでいる通りです。周囲を見回していると、目の前を小学生の女の子が何人か連れ立って横切りました。
 賑やかにおしゃべりをする笑顔の子どもたちの中に、一人だけ、何を考えてるのか黙ったまま、ランドセルのベルトに手をかけて俯いて歩いている女の子がおりました。その子は、私の小さな頃にそっくりです。と、言うよりも、そのものでした。彼女が着ている、紺のワンピースは、確かに私が子供の頃着ていたワンピースでした。
 やがて、その女の子は、黙ったまま同級生へ手を振って、別れを告げ、彼女らとは逆の方向へと、歩き出しました。私は、思わずふらふらとその女の子の後を付いて行ってしまいました。3つ目の角を曲がると、道の両側は、高い塀がずっと続く、お屋敷町でした。車もめったに入ってこない、人通りも殆ど無い細い道を、彼女は、俯いたままてくてくと歩いて行きます。
 その子の背中をみつめながら後を付いて行くうちに、今まで降りていた、帳がめくられたかのように、昔の記憶が呼び覚まされていきます。自分の中に、封印していたものが、次々と、現れ出てこようとしておりました。
 足が弾まないのは、家に帰っても、誰も居ないからなのでした。長い事、我が家の家政を預かっていた家政婦の政さんが、お嫁に行ってしまい、代わりの人がまだ決まってい無かった時期です。一月ほどだったと思います。父も、母も、仕事に忙しく、帰ってくるのはとても遅いのです。それでも、小学校一年だった私が一人で家に放おって置かれたのは、離れに、足を悪くしてからずっと家で物を書いて口を凌いでいる叔父がいたからでございました。
 叔父は無口な人でしたが、私には優しくしてくれました。母屋の薄暗い長い廊下や、政がいなくなってからは、閉めっぱなしで日のささない座敷が並ぶ母屋にいるよりは、こぢんまりとした離れに居る方が寂しくありませんでした。
 そう、思い出しました。学校から帰ってきた私が、ランドセルを置いて、離れにやってくると叔父は決まって、私におまんじゅうを食べさせてから、「床屋さん」という遊びに私を誘うのでございます。
 叔父は、まず私は素裸にし、大きな革張りの安楽椅子を床屋さんの椅子に見立てて、そこに座らせるのです。そして椅子の背もたれの端に結びつけてある絹の紐の輪に、私の手首をくぐらせて、それを自分で握るように促します。これをするのは、私が急に動くと危ないからだと言われておりました。それから、叔父は、私の身体の体毛を、よく研いだ床屋さんのカミソリで、たいそう時間をかけてまんべんなく剃るのでございます。
 シェービングカップの中でたっぷりと泡立てた泡を、私の身体に、大きな筆のようなブラシで塗り広げて、それから、よく研いだカミソリを肌に立ててそぎ落としていくのでした。幼女の私の肌を毎日剃れば、産毛の一つも生えていないつるつるでございましたけれど、それでも、その遊びは、月曜日から土曜日までお休みなく続けられるのです。
 まず、身体の前、それから、背中。刷毛が身体を撫でまわす時は、酷くくすぐったく、研いだ刃物が肌を舐め回すように滑る時は、身体の芯からぽおっと火が灯っていくようなむずがゆさで、熱さがこみ上げていくのでした。
「動いてはいけないよ。」
 時々、叔父は、低い声で囁きます。動いてはいけないというのがこの遊びの一番大切な決まり事なのです。私は、動くまいと、身体に力を入れてじっと息を詰めてこらえています。しょりしょりと、刃は滑り、私の背筋をぞくぞくとした痺れが駆け上がります。伸びをして、暴れて、鬱屈していく身体の感覚を外へ出してしまいのですが、それは許されません。人形のように動かないこと。それが、この遊びの一番大切なことなのでした。  
前から、後ろへ、それから首筋を念入りに、私を一度向きを変えさせて上半身を剃り終わると、今度は私を椅子の上で逆さにします。それから、片方の足を先ほどの輪っかに通して、反対の足を叔父は自分の脇の下に抱えて、私の身体にのし掛かり、私が動かないように、椅子に押さえ付けます。いくら幼女とは言っても、ここまですれば、自分がなにか、親には言えない、いけない遊びをしているという後ろめたい気持ちが強くありました。
「声を出してはいけないよ。」
 そう言いながら、叔父は私の足をつま先から段々と上に剃り上げていくのです。そのこそばゆさに、内腿のやわらかいところをカミソリで剃り上げる時には、必死で拳を口に押し付けないと、がまんできません。
「動いてはいけないよ。怪我をするからね。」
 カミソリが段々と私の足の間に近づき、ふっくらと丸い丘や、割れ目や、桃色の襞の間を、ゆっくりと何度も何度も這いまわる時、動くまいと必死の私は、目をきつく瞑って、息をするのも恐れていました。
 右足をつま先から順番に、それから今度は左足を。二度目に足の間に到達する時は、耐え切れずもがいてしまいそうで、私は必死で身体を椅子にめり込ませようとします。拳の隙間から少しずつ息を吸い、そして、ゆっくりと吐き出すときに、助けを求めるように、舌がふるふると震えて居るのが自分でも分かりました。

 はっと我に帰ると、くらくらと目眩がしました。ぐるりを囲んでいる書架が回っているように感じて、私は荷物を置いたカウンターにしがみつきました。いつの間にか、私は、予約していた風俗店に辿り着いておりました。
「いらっしゃいませ。どうなさいました?ご気分でも悪いのですか。」
 私は、頭をふり、目の前に立っている男性に、視界のピントを合わせようといたしました。それは、この風俗店の受付の男性でした。私は、一瞬、自分がここに何をしに来たのか見失い、ぼんやりと彼の穏やかな表情を見つめました。私が、小学校1年生の時に、自ら命を絶って亡くなった叔父の顔に似ていました。そして、また、この店を教えてくれたあのお客様の、私を見つめた眼差しとも似ているような気がいたしました。
 入り口まで戻って、ドアを開けて外を眺めてみましたが、そこにあるのは普通の団地の風景です。まだ、はっきりと身体をこそばゆくこすっていった、カミソリの感触が残っているというのに。記憶は段々曖昧になり、なぜ、あんな遊びをするようになったのか、どうして叔父は毎日そうしたのか、それに叔父の死の原因も・・・思い出せそうな気もするのに、捕まえようとするとするりと記憶が逃げていくようでした。
「マーゴ・フラゴソの「少女の私を愛したあなた」という本は、ここにありますでしょうか?」
 すると、受付にいた男は頷いて、迷うこと無く、その本をカウンターの下から取り出して、私に手渡したのでした。
「その本は差し上げます」
 と、図書館の男がニコリと笑いながらもうされました。
「今、ここで、どうしても書き記しておきたいことがあるのですが、出来るでしょうか」
「はい、皆さん、そう、おっしゃいます」


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 私は、男の手首が好きだった。手首だけになったそれは、優しく私の頬を撫でるだろう。力強くしなやかな指とすべすべとした甲。掌にあるホクロが愛らしい。暖かくぬくもりを分けてくれる優しい手。
 それに比べて、男の身体はどうだろう。私の思い通りには決してならない。重くて、ものを言ったり、動きまわったり、その上、食べたり、排泄したり。生きているということはなぜ、こんなにもうっとおしいのかしら。理屈っぽくて、口うるさくて、ちっとも美しくない。だから、切り落としてしまおうと思ったのだった。
 けれど、それを承知してくれる男はなかなかいない。私の職業は、女王様だったから、指の一本や二本、いちもつでさえも、捧げてくれるという下僕は、いないでもなかったけれど、でも「手首をあげましょう」と、いう男はなかなかいなかった。例えいても、それは、ちょっとした嬉しがらせの一種でしかなかったり、そんなつもりの遊びだったりして、いざ、真剣に手首を切り落とす時になると、怖気づいて、大慌てに逃げ出す者ばかりだった。
 だとしたら、薬を飲ませて、朦朧としているうちに縛り付け、泣いたり喚いたりしていても構わずに切り落としてしまうというのはどうなのだろう。
 切る時に使うのは電動ノコギリがいい。キーンというあの耳に突き刺さる響きが、男の恐怖を煽り、冷や汗を搾り取ることができる。すっぱいような匂いの恐怖の汗と、言葉にならず、うろたえたように口をぱくぱくさせる様が面白くないこともない。ほんとうは、私のために、覚悟を決めて、自らその手首を捧げてくれるのなら、喜びは倍増し、雲の上に乗るように幸せな心持ちになるだろうに。
 そう思って、よく考えて、目当ての手首の持ち主を口説いてから、その口の中に薬を放り込んで、身体をベッドに縛り付けている時に、ホテルのドアが激しくうち叩かれた。男を縛り付けるのに熱中していた私が、びっくりして、立ちすくんでいるうちに、ドアは蹴り破られて、三人の男達がなだれ込んで来た。それは、私の勤めているSMクラブのオーナーと、仕事のためにホテルにいる間車で近くに控えているクラブの従業員の男。それに、私の家のために働いていた弁護士の、一人息子だった。
 私がまだ、セーラー服を着ているような娘の頃からずっと、我が家に出入りしていたその息子は、幽霊のようにやつれた青い顔をして、激しく私に詰め寄ってきた。
「マナカさん、どうしてあなたは・・・。切り落とした手首は、もう、あなたの思っているようなものでは無くなってしまう事を知らない訳ではないでしょう?固くなり、干からびて、腐っていく。肉が腐っていく時のあの匂い。あなたには決して耐えられないでしょうに。」
 この弁護士の息子は、ずっと、私のことを見張っていたのだろうか。私が、父親と不仲になり、家を飛び出して、今の仕事についてからもずっと。私が、自分のしたい事。夢見ていた事を諦めず、いつか、私が、男の手首を切り落とす算段をする事を予見していたに違いない。
 どんな時でも、私の父は、私を思い通りに動かそうと、あらゆる手を打ってくる。どんなに遠くに逃げおおせたつもりでいても、それは、父の作った檻の床が、恐ろしく広く、どこまでも鉄条網の張り巡らされた塀が続いているだけだったのだから。

 男の手首を切り落とそうとした女王様の噂は、あっという間に業界の端から端まで、伝わってしまったに違いない。私は頸になり、天職のように思っていた仕事を取り上げられて、父の選んだ男と結婚して海外に移り住むか、ほとぼりがさめるまで「そんな噂が辿り着かないどこか田舎」にしばらく隠遁しているように強く言い渡されてしまった。
 なんといっても、今度のことは、ひとつ間違えば警察沙汰。騙された、殺されかけたと喚き立てる私の愛しい手首の持ち主を黙らせる莫大な示談金を払ったのも父ならば、迷惑料を要求する店のオーナーへ引導を渡したのも父なのだ。そのお金と人脈の力を持ってして、私に手首をくれる人を見つけ出してくれるほどに、私を理解してくれたなら、私も家を出る必要もなかったのに。
 父の選んだ男は、私の大嫌いな上流社会のステレオタイプの男でしかなく、結婚すれば、せっせと私の人生を灰色に塗り尽くすに違いなかった。私は、「都会を離れる」という選択肢をなくなく受け入れるしかなかった。父の言うとおりにするのだから、私の気持ちも少しは組んでくれなくては。私は、知り合いの伝手を辿り、もう二度と、決して、誰かの手を切り落としたりしないという、誓紙とともに、せめてもの、その身体の奥から湧き出ては吹き零れる禍々しい欲求を紛らわせてくれる仕事を取り戻した。
 私は、どこか、自分だけの空へ飛び立つ翼を見つけるまで、普通の女王様のふりをして、できるだけ人から離れていようと思った。誰とも深く付き合わず、誰にも心を打ち明けず、さも「仕事で女王様をやっています」というなりをして、私の欲望を揺り動かすスイッチを入れるような、そんな同じような香りをさせる人達や、それ故の悲しみを滲ませる人たちからは出来るだけ離れて。普通の人間のふりができるように、口を閉じて、仮面を被って。優等生の高校生時代に培ったもう一人の私。
 そうして、だから、私は山梨の、このクラブに女王様として、世過ぎをしているのである。毎週、週末には、例の我が家の弁護士の息子が、客となって、私が、新しく怪しい目論見を捻り出していないか、確かめに来るのだった。
 男が私を買うお金を出しているのが、ほんとうは父なのか、それとも弁護士の息子本人なのか分からなかったけれど、その息子が週末に泊まりに来るのを受け入れている限り、私は、そのSMクラブの中の取り決め通り、旅館の客室で過ごすことができて、毎日、自分だけの時間を持てるから都合が良かったのだった。
 それに、その男は、この場所で、手首を恋い慕う、私の本当の気持ちを知っているただ一人の男なのだから、一緒に過ごす時間を持つことに否やはなかった。
 弁護士の息子は、私の部屋に来ると、その少し灰色の混じった薄い茶色い悲しそうな瞳で私をじっと見つめた。この男はまだ、私のことが少しばかり好きなのかもしれない。私が少女の頃からずっと変わらずに。
「私は、男の手首が好きなだけなのよ。」
「ええ・・・・・・、分かっていますよ。マナカさん。」
 そう言うと男は服を脱ぎ、それから、左の肩に義手を留めつけてあるベルトを外して、父が大枚をはたいて作らせた、その爪の一枚一枚まで本物そっくりの義手を外して、私に握らせてくれる。それから、風呂にお湯を張り、片腕のまま、湯を使うのだ。
 湯から上がってきた男は、片方だけ残っている右手で、私が、冷たい義手に頬ずりをしながら流す涙を拭おうとする。そんな時、私は思わず、もう一本の木の切り株のように先が丸くなった腕に口づけせずにはいられない。
 なんといっても、その腕は、私が、生涯でただ一度だけ、我がものとすることができたあの血の匂いがむせ返るような寝床で掻き抱いた手首の、生えていた腕なのだから。

 茉由はその暗い公園で遊ぶのが好きだった。公園は、街の真ん中にあるはずなのに、なんだかそこだけ四角く切り取られたように空気が違うと茉由は思う。森の奥のようにひっそりと人気がなくて温度が低い。それから、茉由にとって一番重要な事は、大人の押し付ける「友達」という騒々しい生き物の姿がないという事だった。
 茉由は6歳だった。亡くなった母親に似て陶磁のような白い肌と愛らしい桃のような頬を持っている。瞳は日に透けるビー玉のように色が薄く、金茶の髪はくるくると巻き毛を作っている。服装は、フリルとレースで縁取られたワンピースで、居間の暖炉の上か、子供部屋のベッドの上に飾っておく人形のようだった。白い靴下に、赤いエナメルの靴を履いて、スキップをするように歩いてくる。
 公園の入り口で茉由は必ず花壇の側にしゃがむ。そして、公園の中を覗く。人がいない事を確かめることが重要なのだ。それから、花壇の周囲の波打っている柵の隙間をすり抜けて、花壇の中へ入る。
 一本、二本、三本。花壇の中から葉を生い茂らせて公園を覆っている木の幹をなぞりながら、茉由は公園の周りをゆっくりと周る事にしていた。公園の風景はいつもと同じ。茉由は、いちごやバナナのスプリング遊具を選んだ大人は馬鹿じゃないのと考える。けれど、そう考える茉由自身は、普通の子供が好きなものに、ほとんど興味がわかなかった。
 四本、五本、六本。茉由は樹を数えながら足を運ぶ。ブランコが小山に隠れて見えなくなる。次に現れるのは塗料が所々剥げてサビが出ている船の形をした滑り台だ。茉由はこれを滑ったことが無い。スカートが汚れるからだ。服が汚れると家を抜けだしたのが大人にばれてしまう。だから、茉由はいつも用心している。家政婦さんが晩御飯の支度をして帰ってしまい、その後、父親が帰宅する時間までの間、茉由は家でピアノを弾いている事になっている。
 花壇の中をぐるりと周って入り口に戻った茉由は、顔をあげて公園の中に足を踏み入れる。花壇の中をこっそりと歩んでいた時と違い、また、弾むような足取りを取り戻して、まっすぐに公園の中央にあるブランコに駆け寄るのだ。
 茉由は、男たちが、どこから来るのか知らなかった。けれど、茉由が、儀式のように公園の周りを取り囲む花壇の中を歩いているのを、見つけてやってくるのに違いないと思っていた。もちろん、誰もやってこないまま夕焼けに促されて帰る日の方が多い。けれど、かなりの確率で男たちは彼女を見つけた。それは茉由が男を見つけることでもある。
 彼らはみんな、背を丸め、こっそりと人目を忍んで公園に潜り込み、ブランコの上で揺れている茉由を見つめる。すぐには近づかず、随分とためらってから、彼女の側にやってくる。
「お嬢ちゃん」
 ひそめた声。顔に貼り付けた笑顔。自信がなさそうなおどおどとした態度。茉由からすれば、彼らはみんなよく似ていた。ブランコに乗る茉由の側にしゃがみ込み、彼女と視線を合わせようとする。猫なで声で話しかけ、彼女の手を握り、公園の隅へ連れて行こうとする。
 そんな時、茉由は、決して逆らわない。あどけない瞳を好奇心に見開いて、男のもっさりした手を握る。その手をひいて、男たちは、公園の中の思い思いの場所に茉由を連れて行き、それから、改めてまた、彼女の足元にしゃがむ。そして、意味のない言葉を話しかけながら、恐る恐る彼女の身体に触れ、足を撫で擦り、うんと時間をかけてから、ようやく、スカートをめくりあげ、パンツを下ろそうとする。幼い女の子の不可思議で独特な匂いが辺りに漂い、反応した彼らは、うっとおしく湿った汗をかきはじめる。
 その瞬間を茉由は待っている。それが一番の楽しみなのだ。舌舐めずりして、広げた網に男がかかるのを待っている。おそるおそる、両手をひらひらしたフリルの下に潜り込ませて、彼女の下着にかけて、少しずつずり下ろしている最中に、茉由は心の中でにんまりと笑いながら、できるだけ冷たい声で言う。
「変態」
 その瞬間、男の顔はみるみるうちに歪み、自分の行動におそれを抱いた男は、周囲を見回すと、巻き戻すようにしゅるしゅると小さくなって公園の外へと吐出される。男がいなくなった公園には、腿の途中に小さな布地を絡ませて、上気した頬に喜びを噛みしめる茉由が取り残される。
 そんな風に茉由は怖いもの知らずの少女だった。男をいたぶり、跪かせ、それを足蹴にしては、うっとりと夢をみる。触ると発条仕掛けのネズミ捕りのようにパチンと弾けて、笑い転げる少女。茉由は触ってはいけない刺の生えた薔薇だったのだ。
 その日も、茉由は、何もなかったようにパンツをひきあげると、スカートのしわを手で伸ばし、くるりと周って自分の姿を確かめるように見下ろすと、また、微笑みを浮かべてスキップで公園を去って行った。

 パアアアアアアアアーン・・・・。
 寒い冬の青空に、市電の警笛音が鳴り響く。どうせ、右折しようとしてタイミングを逃した車が、市電の線路の中に斜めに乗り上げたまま、進むも引くも叶わなくて、立ち往生しているのだろう。スピードを出して流れている直線車に邪魔されて、右折できず、身動きの取りようがない情けない車へ向かって、優先権の傲慢さを振りかざして市電は突進し、甲高い警笛を鳴らしまくるのだ。
 そんな見慣れた風景の向こうに見えるのは、噴煙を吹き上げる桜島だった。昨日までは、長崎にいて、市電の向こうの風景は、びっしりと山の上まで隙間なく積み木のように積み上げられたような家の群れで、山はその向こう側にやわらかな緑の連なりを広げていたのに、たった2時間足らずの飛行機に乗っただけで、同じように市電が走っているのに、ぜんぜん違う別の世界に移動して来ている。
 理屈では、私が生きている今この時も、どこまでも広くつながった世界中が存在していて、私の知らない人たちが、私の知らない人生を生きている事は理解できるのだけれど、まったく、実感が沸かなかった。昨日までは、故郷にいたのに、今は、その全てに別れを告げて、通う大学のある鹿児島の空を見上げている。ここにいるのは、私なのだろうか。踏んでいる地面は、どこか頼りない。
 そんな私の物思いには全く気が付いていない新島さんは、私がちゃんと付いてきているのか気にかける様子もなく、自信あり気な足運びで目的の場所へずんずん進んでいた。
 彼は、3ヶ月前に、私の参加している市民合唱団に、新入りとして入団した。パートはテノールで、伸びやかで明るい声が遠くまで飛んで、結構うまい。彼に「帰りに紅茶を一緒に」と、誘われた私は、以前にもこんなことがあったような不思議な感覚をなぞりながら、好きになり始めた彼の後ろを黙って歩いていた。電車通りに面した商店街のビルの地下にある喫茶店は、私も、度々使っているのだけれど、煙草を吸う人が多くて店内は靄がかかっているように白いのが偶に傷だ。煙草は、歌う喉に酷く良くない。けれど、新島さんも、煙草を吸う人だった。そして彼は煙草を吸うのがよく似合う。
 喫茶店の入り口は細くて狭くて暗い階段の突き当たりにある。私は、その階段を、頼りない手すりを探りながら一歩ずつ降りて行った。取り回しに扱いかねている大きな荷物を持っていて、その箱の角が、階段の狭い壁にゴツゴツと当たる。
「持とうか?」
 手を伸ばして彼は、楽々とその箱を私の手から取り上げた。階段の突き当りのドアを開くと、空間は音楽で満ちていた。この喫茶店は、それなりの音響設備を使ってBGMにクラシック音楽だけをかける名曲喫茶だ。今、かかっているのは偶然にも、暮れの12月から練習を始めたフォーレのレクイエムだった。
 この曲は、1888年1月16日、フランスの首都パリ8区にあるマドレーヌ寺院というカトリック教会で初演された。当時は、マドレーヌ寺院の合唱団には女性が加わることが許されていなかったので、合唱は男声合唱と少年合唱で歌われるように作曲されている。今でも、どちらの選択をすることも可能だけれど、ソリストや合唱団が少年たちであることは、めずらしくない。私は、ボーイソプラノのソロで歌われる中性的なフォーレが好きだった。特に4曲目のソロ曲「Pie Jesu(ピエ・イェズ)」は、少年の声で聞いたほうが心に沁み入るような気がするのだ。ソプラノの呼びかけにハープとオーケストラが答える。何度も書きなおされた総譜の第3稿で加えられたフルートとクラリネットは、実はこの曲しか出番がないのだけれど、演奏者に「ここだけのために30分座っていても幸せ」という声が聞かれるほどの美しい調べを持っている。その少年の声が、私の耳に入り込み、私の心を押し広げ、深く楔を打ち込んでいく。

Pie Jesu, Domine Dona eis requiem. 
慈愛深いイエスよ、主よ 与えてください、彼らに、安息を
Dona eis requiem Sempiternam requiem.
いつまでも続く安息を。 

 合唱を初めて、宗教曲を歌うようになると、テレビのあらゆる番組のBGMにいろんな作曲家のレクイエムが使われていることに気がつく。歌えるようになるまで、それはただの効果音でしかなかったのに、ある日突然、音楽は意味のあるものとして聞こえてくるのが不思議だ。
 甘いものが飲みたくて、牛乳をタップリと入れたロイヤルミルクティーを頼んだ私と違い、新島さんは、紅茶の種類には、あまり頓着せずダージリンのストレートティーを注文した。
「この紙袋の中身はなんなの?随分と大きいけど」
 質問を受けて、私はテーブルの上に紙袋を乗せて、抱えるほどの大きさの箱を取り出した。プレゼント用にかかっていた水色のリボンを解いて、その箱の蓋を開けると、その中身はしわ加工のされた水色の薄紙で幾重にも包まれている。一枚一枚紙をめくっていくと、中から出てきたのは、球体関節人形だった。私そっくりに似せて特別に作ってもらったオーダーメイドの人形である。加工されて生花の時のままの姿を保っている水色のバラのコサージュをつけ、水色のジョーゼットのワンピースを着ていた。けれど、その薄紙を剥いでいく私の手は、ピンクのワンピースを着ていた。私は、包を解くその手をぼんやりと眺めながら「この手は誰の手なんだろう。私は、本当に摩耶なのかしら。」と、考えていた。
 その袖の色を見つめていると、どこか自分が自分でないような、いる場所を間違えてしまったような、違和感がつきあげてくる。本当なら、長崎の山々に抱かれて眠っているのは、私の方だったはずなのに。
「この人形は、摩耶ちゃん?それとも、由佳ちゃん?どっちが、服はいつもピンクを来ているんだっけ?こないだ、聞いたような気がしたんだけど。えっと、君は摩耶ちゃんだよね?ごめんよ。ちょっと区別がつかなくて。」
 新島さんは、顔をあげて、ピンクのワンピースを着た私をまじまじと見つめて、苦笑いした。
 新島さんは、私と由佳の区別がつかない。それも当然のことで、一卵性双生児だった私達は、顔も、背格好も、歌う声さえ全く同じだった。同じ卵から切り分けられた右半分と左半分。同じように成長し、同じように人生を歩み、同じ幸せを獲得するはずだった。けれども、幸せは何故か平等じゃないし、人生も、どこか同じものではなかった。
 例えば、この目の前に座っている、優しそうで穏やかな青年は、多分、私よりも由佳に好意を抱いていた。異性として、私たちの両方を選ぶことはできないから、私たちの全く同じ外見や、ほとんど区別がつかない内面に頼らず、ピンクのワンピースを着ていた由佳のイメージの方を選んでいたのだった。
 私はそれがとても悲しかった。新島さんが私を選んでくれなかったのもそうなのだけれど、何故か、いつも由佳の方が私の欲しいものを手にし、私の手の中にはその代わりに、同じような価値があるはずなのに、ちっとも欲しくない物が残るのだ。例えば、どんなに望んでも、ピンクのリボンは由佳のものになり、決して私のものにはならないってふうに。
「由佳ちゃんはどうしたの?君たち、いつも一緒にいたでしょう?」
 新島さんは何も知らない。私たちの事。私の事。私の想いの事。
「由佳は、事故で死んでしまったの。お正月に里帰りしていた間に。それで、お葬式とかいろいろあって、鹿児島に戻って来るのがこんなに遅くなっちゃったの。大学の授業も、新しい合唱曲の音取りもすごく進んでしまったのね。」
 新島さんは「えっ」と、息を呑んだきり、続ける言葉が見つからない様子で、固まっていた。火をつけたばかりの煙草が、灰の長さだけを延ばしていく。
 私は、人形の頬をそっと撫でた。私に似せて作った人形は、本当なら由佳が受け取るはずのものだった。私は、今度の正月の里帰りに、故郷で死のうと考えていた。「由佳が手にしている私の欲しい物」を見つめて過ごす人生を、もう終わりにしたかった。このまま新島さんがどんどん由佳に惹かれて行くのを見続けているくらいなら、いっその事もう、終わりにしてしまいたいと思っていたのだ。それなのに亡くなったのは由加だった。お葬式の間も後も全然実感が沸かなくて涙も出ず、浮遊感の中を漂って来たのに、こうして私の似姿の人形を見つめていると、なぜか大粒の涙がポロポロと流れてきた。
 昔から、私たちがあまりにもそっくりな赤ちゃんだったので、母は、私たちの区別をつけることができなかった。それで産院で右側に寝かされていた娘に由佳とつけ、左側に寝かされていた々に摩耶とつけた。区別がつくように、右側の子にピンクのベビードレスを着せ、左側の子に水色のベビードレスを着せた。母は、その後もきっと二人をうっかりと割り当てじゃない色の服を着せたり、寝かせる場所を間違えたりして、私たちを取り違えたりしていたのじゃないかと思う。だから、幼い頃、私自身、自分が本当に摩耶だという確信をもてないでいた。由佳の考えていることは、言葉にしなくてもなんとなく通じたし、由佳は私でもあり、摩耶は由佳でもあったのだ。
 けれど、私が死のうと思っていたことを、由佳は全く気がついてなかったと思う。ふたりして除夜の鐘の音を窓を開けて数え、それから、長崎で一番大きい諏訪神社の初詣に出かけることにした時も。
 新しいワンピースに着替えて、玄関に出てみると、私と由佳のお揃いの黒いパンプスが二足綺麗に並べられてあった。初めての色違いではない、おろしたての新しい靴だった。いつものように私は何気なく、左側の靴に自分の足を滑りこませた。すると、どういうわけか、新品の靴のくせに、踵がぐらぐらしていた。どうしていつも、由佳の物は、傷一つなく、私の手の中にあるものは、どこか不具合があるのだろう。
 その時、多分、なにかが私の中を通り抜けていった気がした。私は、踵がグラグラしている靴を脱いで、もう一度玄関の式台に戻った。2つの靴は寸分違わず同じデザインで黙って並んでいる。私は、右側の靴に足を滑りこませた。どちらも、今日、初めておろす靴なのだから、由佳は、私が彼女の靴を取ったとは気付かないはずだ。それに、まったく同じ靴なのだから、左を先に履いてみたのはただの偶然で、右の靴を履いたって不思議ではなかったのだから。
 諏訪神社は、一の鳥居から五の鳥居まで、ずっと階段が続いていて、鬱蒼と茂る山の樹々に抱かれている。一番上の急な階段は73段もあって長坂と呼ばれていた。私は、三の鳥居の広場につながっている車道までタクシーで行きたかったのだけれど、由佳は、神事なのだから、正面の階段をずっと登るべきだと言い張った。
「待ってよ。由佳。」
「摩耶ったら、だらしないぞー。」
 あと少し、あと二、三段で、一番上まで辿り着くと思えた時、息が切れた情けない私の呼び声に、由佳は華やかに笑いながら振り向いた。その時、彼女の足がカクンとなったのが見えた。ヒールが折れたのか、滑ったのか分からないけれど、振り向いたまま彼女の身体は階段を落ち始めた。私の目の前で、由佳の身体がさかしまになって行き、びっくりしたような視線が、私の瞳にぶつかった。
 それから、由佳は私に向かって手を差し伸べた。それがまるでスローモーションのようにはっきりと見えた。もちろん私はその手を握るべきだった。あんなにゆっくりと動いていたのだから、もっと他にも、もっと、何かできることがあったはずだった。けれど、私は、ただただ驚いて由佳が宙に浮くのをじっと見つめていた。 私の中途半端に振り上げた手は、彼女の身体のどこにもかすらず、彼女はもんどり打って、長坂を転げ落ちていった。年が明けたばかりの時間で、あんなに沢山の初詣の人出があったのに、73段の階段を誰にもぶつからず、誰も巻き込まず、一度も止まらず落ちていって、階段の下の石畳に叩きつけられた。
 産まれた後、由佳は右側に寝かされていた。私は左側に寝かされていた。私は、靴の踵がぐらついていたのを避けて、右側の靴を履いた。由佳は、何も気が付かず左の靴を履いた。ただ、それだけの事だったのに、私は生き残り、彼女は死んだ。
 その後、私は、自ら死ぬ事を考えなくなり、四十九日の法要が終わった後、一人で鹿児島の大学へ戻ってきた。
 由佳のいなくなった部屋の彼女の机の上には、彼女が帰ってきた時に見つけるように、私の書いた遺書が乗っていた。私は、その遺書の封筒の中から、人形の受取証だけを取り出し、後は破って捨てた。そうして、今、私は、由佳に遺すつもりだった私の似姿の人形を見つめている。
 私がいなくなった後、私の代わりと思ってこの人形を大事にしてね。確か遺書にはそんな文面を書いたような気がした。呪いだった。私がいた事を忘れないように。
 鼻をすすり上げると、私はバックの中から、由佳のものだったピンクのハンカチを取り出して涙を拭った。我に返った新島さんは、タバコの火を灰皿に押し付けて消した。
「大丈夫かい。辛いだろうね。ずっと一緒に生きてきたんだろうに。僕にできることがあれば、なんでも言っておくれ。」
 ええ、そうね。あなたは私と由佳の区別がつかない。きっと、仄かに好意を抱いていたのが、彼女だっだ事も夢のように薄れていく。そして、私は、きっと幸せになってみせる。
 さようなら、水色のワンピースしか着せて貰えなかった私。私は、私自身に別れを告げる。薄紙をそっと人形の上にかき合わせると、水色のワンピースを来た少女は、覆われて見えなくなった。私は、蓋を持ち上げて、きっちりと箱を閉じた。

 顔をあげると曲は、ベートーヴェンハ長調ミサの「Sanctus(サンクトゥス)」になっていた。

Benedictus qui venit   祝福されますように、来たるものが
in nomine Domini.     主の名において
Osanna in excelsis.    オサナ、いと高きところにて
 焦っていた。佐久間みゆきは、めちゃくちゃ焦っていた。目が覚めたらとっくの昔に約束の時間を過ぎているというこの事態に気がついた時、みゆきは自分の体温が、一気に10度以上降下したような気がした。ただの錯覚だが、現実は厳しい。今日の約束の相手は、スパンキング倶楽部というサークルの先輩の手嶌御津彦である。
 スパンキング倶楽部というサークルは「悪いことをしたらお仕置きをしましょう」と、いう趣旨の元に結成されているSNSのサークルだ。手島は、カーで、お仕置きをする側の人間だった。そしてみゆきはキーなので、当然お仕置きをされる側なのである。約束の時間を遅刻するのは定番のお仕置きネタで、お仕置きされたさにわざと遅刻してくるキーもいるくらいである。しかし、手嶌のお仕置きの厳しさは半端ない。いや、半端ないという評判である。本気で、みゆきが一番お仕置きを受けたくない相手のナンバーワンと言ってもいい。
 みゆきは大急ぎで、まず、彼に遅刻のメールを送った。それから5分で着替えて3分で葉を磨き、2分で顔を洗うと、玄関を飛び出した。メイクなんてしている場合でもなく、髪も解か好き持ちの余裕もなかった

 手嶌は、ぼんやりとホームのベンチに座っていた。待ち合わせしていたみゆきが、件名「遅刻」本文「寝坊」と、いうそっけないメールを送ってきた。しかも折り返し電話してみたが、走っている最中なのだろう携帯に出なかったのだ。今、手嶌が心配しているのは、みゆきが焦るあまり、階段で足をもつれさせて、転げ落ちてくることだった。キーの遅刻ごときで気分を害したりしていては、カーは務まらないのだが、お仕置きをしないわけにも行かないだろうな・・・と、手嶌は、自販機で買ってきたコーヒーを飲み始めた。もちろん、みゆきの分の純粋ぶどうジュースも予め買ってある。ぶどうジュースを選んだのは、ただの適当な勘である。
 家を出てからの駅までの距離を考えて予想していたよりも、15分遅れてみゆきは階段を走り降りてきた。幸いにもつまずきそうになったのは残り2段の場所だったので、予め階段の下でスタンバイしていた手嶌は、みゆきを受け止めることが出来た。
「ご、ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。寝坊しちゃって。すいません。」
「分かってるから、そんな大きな声出さない。みんな見てるよ。」
手嶌は、みゆきをベンチに座らせると、ぶどうジュースを渡したみゆきは、ずっと走ってきたのだろう。すっかり息があがって、はかばかしくものも言えないようすだったが、ぶどうジュースの蓋を捻ると、ごくごくと喉を鳴らして、ジュースを飲んだ。おもいっきり息を吐き出す。
「いまさ。ここに座ってたら、向こう側のホームに座ってた人が、財布を忘れて電車に乗っちゃったんだよね。」
「え?」
 さっそくの説教を覚悟していたみゆきは、手嶌の振った話題につながりをみつけられずにぽかんとした。
「そしたらさ、次の客がやってきて、その財布を見つけた。どうしたと思う?」
「えーと、駅員に届けた?」
「ううん、気づかないふりをして、自分の持ってたタオルをその上に乗せた。」
「ふむふむ」
「そして、周囲を見回した。周りにいた何人かの人は、地下鉄と繋がった電車の方に乗って行った。それで安心したんだろうね。男は、タオルごと財布をバッグに入れて、その次の電車に乗った。」
「えー、それってネコババしたってことですよね。」
「うん、捕まったら遺失物横領罪だろうね。」
「えっと、犯罪になっちゃうんですか。」
「なるね。捕まった場合、僕が見ていた事を証言すると多分、起訴されちゃうだろうね。そうしたら、99%有罪になって前科がついちゃう。」
「ひえええ・・・。」
「こないだ、コンビニで携帯電話料金やたばこ代など約1万3千円の会計で、1万5千円を店員に渡したら、コンビニに店員が6万円を預かったと思い込んで、男性に4万6千円のお釣りを渡した。黙って受け取った男性は、詐欺罪で逮捕されちゃったよね。」
「あ、あれ、変だと思ったんですよね。お釣りに1万円札を出すってどういう間違いですか。」
「あれとかも、同じだと思うんだけど、彼らは最初から悪いことをしようと思ってたわけじゃないと思うんだよ。でも、向こうの方から金がやってきた。」
「そういえば、2700万円通帳に入ってて、ラッキーってつかっちゃったおんなのひとが逮捕されちゃった話もありました。」
「うん、あれ、さすがに金額が多くて、入金した相手と取引があったし、返して欲しいって請求を無視って逮捕されたんだよね。でも、間違えて違う口座入金しちゃっても、少額だと結構泣き寝入りになることあるんだよね。銀行が、組み換えって手続きをするんだけど相手から返事がこないと手のつけようが無いみたいな事言い出して。でも、ほんとは、不当利得返還請求権を行使して、ちゃんと返してもらえるんだけどね。でもさ、彼らは最初から犯罪を犯そうと思ってたわけじゃない。ちょっとした誘惑が目の前に差し出されて、出来心がわいちゃって、差し出されたものを掴んじゃったんだよね。もし、そこに財布が落ちていなかったら、彼も、財布を横領しようと企んだりしないと思うし、お釣りだって、100円200円の事だったら、ラッキーって思っちゃって、黙って受け取っちゃったりしちゃうって、あるんじゃないのかな。」
「うーん・・・確かに。」
「犯罪って自分とは全く関係が無いって思っていても、ほんとに、ちょっとしたタイミングで右を選ぶか左を選ぶかで、人の運命変わっちゃうんだなあ・・・。」
「ふむふむふむ」
「まあ、佐久間さんが遅れてきてるのを待ってる間、そんな事をつらつらと考えながら、ここに座ってたってわけ。」
「ふむふむふむふむ。」
「ちゃんと時間通りに行かないとって、目覚ましをセットするかしないかで運命も変わっちゃうんだよね。まあ、いいんだけど。遅刻はパドル30発+送れた時間10分毎に10発追加だから。」
「え?」
みゆきは急いで自分の腕時計を見ようとしたが、焦って家を出たので腕時計なんかしているはずもない。
「あ、あのう・・・今、何時でしょうか・・・。」
「45分の遅刻だから45発追加の75発。」
「あのですね。遅刻しようと思ってたわけじゃなくて、目覚ましもかけてたのにいつの間にか止めちゃってて、だから、右を選んだはずが左になっちゃっただけなんですけど。だから、えーと、あの、減らしてもらえません?」
「だめ。それに、君がここについてからすでにもう、2本電車が行っちゃってるんだけど、これで、僕らの運命も随分変わったはずだと思うけど?」
 乗るべき電車がゆっくりとホームに滑りこんできた。
みゆきは、手嶌に促されて、とぼとぼと電車に乗り込む。
「それにさ。多分、向こうで櫻守さんが僕達の来るのを待ってると思うんだよね。まあ、一応メールはしたら、待っててくれるって言ってたし、でも、彼女きっと一時間以上待ってることになると思うな。」
「ひええええ・・・、もしかして、それって別払いですか?」
「もちろん。」
「しくしく。」
「あ、一応、希望聞いとくけど、木のパドルと革のパドルどっちにする。」
「・・・木にします。」
「なんで、キーって、痛い方を選ぶのかな。」
「だってだって、革じゃ、まるでSMみたいじゃないですか。」
「そんなこだわりを持ってるのは日本人だけだと思うけどねぇ。」
 なぜなんだろう。キーの女の子は決していい加減な性格なわけでも、迷惑かけようと思ってるわけでもない。けど、なぜか、始終、遅刻してくるんだよな。・・・何度も何度も何度も、こんなシーンを繰り返してるような気がして、手嶌は、佐久間みゆきの今晩のお尻にちょっと同情した。