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5、気が狂うほどに欲しい

ここでは、「5、気が狂うほどに欲しい」 に関する記事を紹介しています。
 それきり、彼女は、仕掛けてこない。普通に夕食を食べて、ワインをかたむける。話題は先週見に行ったオペラの話になり、そこから、来月見に行くコンサートの指揮者の話やソリストの話になった。罪の無い音楽の話題から、映画の話。それから、見に行きたいミュージカルの話へ…。そして、旅行へ行く話になる。
「イギリスに行きましょうよ。本場で絶対見てみたいの」
「それは、いいですけど、また、ふたりで休暇を合わせるとなると、すぐにという訳には行きませんよ」
 彼女は、一瞬黙って、僕の顔をまじまじと見た。
「東野。実は、事業を縮小しようと思っているの」
「え?」
「イベント事業の方よ。趣味は、もう終わりにして、本業の方を拡大しようかと思って。一年ぐらいはかかると思うけど、社員も増やして、私がいなくても会社が動くようにしたいの」
「それは……もちろん、イベント事業をやめてしまえば、むずかしくありませんよ。まったく瑞季がいなくてやれるって訳じゃないですけど。株式を動かすのは、結局はあなたの判断次第なんだから…」
「でも、それだったら、インターネットさえあればどこでも出来るわ」
「……もう一人、人間が要ります。社長一人が、自由に動けるようにするのは簡単ですが」
「そうなのよね。東野が会社にいれば、遊びに行くのは簡単なのだけど」
 彼女を事業から自由にさせる。それは、難しくない。だが、そうなれば、僕自身は会社に張り付かざるをえない。彼女のいない会社に縛り付けられるかもしれないと思うと、すべて投げ出して彼女の後を追って行きたくなる。彼女がいればこそ、まったく自由が無くとも、傍にいられるだけで幸せだった。
 それだけでなく、もうひとつ、ずっと気になっていたことがあった。考えるだけで、胸が焼けるように痛むある懸案。イベント事業を縮小するということは、その提案は流れたのだろうか。今しか、その質問をするチャンスはなかった。僕は、もしかしたらこの休暇をめちゃくちゃにしてしまうかもしれない質問を口に出した。
「社長・・・・・・高原氏の提案は断られたんですか?」
 最初に高原氏からその話を聞いたのは僕だ。まだ、瑞季が高原氏からその提案を受ける前。
「礼儀として、君の了解をとってから瑞季に話したい」
 高原氏は、そう言った。試されている。彼に会うのは三度目だったけれど、毎回、底冷えがするほど怖かった。その提案に対して、口の利き方を間違えれば、瑞季の側にはいられなくなってしまうことが分かった。瑞季が自分で選んだと思わせる形で、僕を叩き出す力量が、彼にはあるのだった。
 瑞季は、黙って、ワイングラスをくるくると回し続けた。時間が止まり、指先から少しずつ凍っていくような恐怖が這い上がってくる。
「断ったわ」
 どうして?次の質問がせり上がってきたが、どうにか、蓋をして押しとどめた。それと同時に、息が吸えるようになって、指先にどっと血流が戻ってきた。
 高原氏が持ち出したのは、ファッション関係のイベント事業で頭角を現してきた真樹を会社の一部門として加えるという提案だった。それだけでなく、高原氏が事業にに介在すれば、会社が飛躍的に大きくなる可能性が分っていた。そうすれば、今、彼女が言っているイベント事業を縮小する話は考えなくてもすむ。受けるべき話だった。
 僕は、ぎゅっと目を瞑った。もう一人の男は、瑞季を挟んだ向こう側に静かに佇んでいる。二人はあの後一度も会っていない。それは、この僕が一番知っていた。瑞季のすべてのスケジュールを把握しているのだから。それでも、僕は、未だに彼を越えたという自信がなかった。
『僕が彼女に一度も会わないとしてもこのつながりは決して切れない』
 そんなことは僕には言えなかった。そもそも、彼女に会わないでなんていられない。
 彼女の手が腕に乗せられる。ビクッと身体が揺れてしまう。心臓が早鐘のように早まり、マグマのように熱いものが身体の中に満ちてくる。たまらず彼女を抱き寄せた。この一ヶ月何とかして避けようとしていた事態の中に自分から頭を突っ込んだも同然だった。彼女はまったく逆らわずに熱い体を寄せてくる。彼女の身体を覆っているのは薄いシルクのワンピース一枚だけだ。掌の下は、もう彼女の身体だと思うと目の前が真っ赤になる。
「欲しい」
 すっかりうわずって掠れた声で囁く。彼女の耳の後ろに唇を押し付けた。ばかな。手を離せ。もたないぞ。すでにぎりぎりなのに。あっという間にのりを越えてしまう。警告が頭の隅で激しく点滅する。
 歯を喰いしばって彼女の身体から自分を引き離す。押しやる動作にびっくりして彼女が振り仰いで僕を見た。瞳の奥に傷つけられたような光。やめてください。お願いだ。たまらない。僕がこれほどあなたを欲しがっているのに。分からないんですか。そんな目をしないで。耐えられない。
 擦り寄ってきた彼女の唇が咽喉に吸い付いてきた。熱い衝動が、身体を走りぬける。呻き声をあげて、一度引き離した身体をまた引き寄せてしまう。助けてください。助けて。あああ。あとどれくらい我慢すればいいんだ?思わず僕は時計へ視線を向けた。
午後十時。後、二時間。飢えきった身体にとっては、永遠とも思えるほどの時間だった。
息が震える。
「瑞季…。苦しい」
 片手を挙げて顔を覆う。その身体に彼女が体重を掛けて、僕をゆっくりと長椅子に押し倒した。歯をぎりぎりと喰いしばりながらも、僕は逆らわなかった。彼女の好きにさせた。彼女が僕にどっちを選ばせたがっているのか分かるはずだ。どちらにしろ、彼女の望む方へ舵を切るためには、自分の中に残っているありったけの自制心をかき集めても足りそうに無かった。
 彼女の頭を抱えてその目を覗き込む。目が合うとふっと微笑んだ彼女はぴったりと胸に頭を擦り付けた。
「好き」
 思いもかけない彼女の言葉が、僕の心を喜びに震わせる。ずっとずっと・・・・・・と、声に出さずに心に刻む。ずっとあなたが好きでした。これからも。この先も。
 そのまま彼女を抱きしめて、お互いの心臓の音を聞きながら残りの二時間を過ごした。喜びと苦しみがないまぜになった長い二時間。僕は、彼女がくれた言葉の贈り物を反芻して耐え忍んだ。

 正直に言うと、その夜、瑞季をどうやって抱いたか、まったく覚えていない。



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コメント
この記事へのコメント
抱きしめあって2時間過ごす。
そんな風に贅沢に時間を使える東野さんがうらやましいな。
多忙な合間を縫っての逢瀬ではなかなか、
寄り添うだけの時間。ってもったいなくて作れない。
つい、何かをしなくてはいけないと思ってしまう。
東野さん、瑞希さんに「好き」のプレゼントされて
嬉しかっただろうなぁ…。
2006/05/28(日) 09:07 | URL | せつな #-[ 編集]
 いや、なにかしたら暴発しちゃうでしょ。
(=⌒▽⌒=) ニャハハハ♪
 ただ、あのふたり一日中一緒にいて
しかも、今や、365日一緒にいるみたいだから
なにもしないで寄り添う時間こそ
東野にとっては宝物かもね。
2006/05/28(日) 13:41 | URL | さやか #DS51.JUo[ 編集]
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