
新しくなり、より複雑になった羽田のターミナルビルに比べ、みっつの発着所しか無い青森空港では迷いようがなかった。ゲートの向こうに、黒い服を着た怪しい男が立っている。改めて高原という男の人脈を疑わざるを得ないような様子の運転手が、空港の入り口に着けた黒いベンツに僕は淳一を押し込んだ。ほとんど口をきかないうちに車は滑るように走り出した。窓の外の風景は、もう淳一の目には映っていない。青ざめた冷たい手をした少年は、僕の肩の影に隠れるようにして寄りかかっていた。
初めて彼に会った時、聞かされた境遇とあまりにも違う明るい目の色に驚いた。僕が投げつける一言、一言に跳ね返るように反応してくるその素直さまっすぐさ。百万語を費やしても伝わらないはずの他人である彼の、ストレートな気持ちが、彼の目から顔から体から溢れるように流れ出していた。
それが 今、頼りなく揺らいで消えそうになっている。病院に近づけば近づくほど彼の命の火が小さくなっていくようだった。その病院は坂を登った先にあった。周囲は木で囲まれ、その向こうには市街地が広がっているのが見渡せる。車は音も無くカーブを曲がり、病院の駐車場に滑り込んでいく。部屋番号と名前の書かれたカードを運転手が差し出すのをつかみ取ると、ぼんやりとしている淳一の腕を掴んでひきずり降ろした。淳一の足元は不確かで、動きはひどく鈍かった。
「淳一?」
「死んでしまう」
たった一人の肉親が。たった一人の母親が…。
苛立ちに、思わず彼をつかんで揺さぶりたいような衝動が突き上げてきた。自分のその感情がどこから湧き出てきたのか、何を表しているのか、分析している場合でも無く、僕は彼の手を引いて受付へ急いだエレベーターを待つのももどかしく、告げられた集中治療室へ移動する。
何がこんなに不安なんだろう。追いかけられるようにして、教えられた病室の前に行くと、慌ただしく出入りする看護婦の背中の隙間に、ベッドに横たわる女性にすがって泣いている若い男の横顔が見えた。まさか……間に合わなかったのか?振り返ると、淳一は、目を見張り瞬きもせず、自分から母親を奪い去って行った若い男の横顔を見ていた。
時間が止まった。
「……そういう事……だったんだ」
「淳一?」
「知ってる。その男。……お袋の勤めていた店の一番新しいバーテン」
淳一は頼りない足取りで前に進み出た。男が泣きながら取りすがるせいで揺れる白い頬に手を伸ばした。そっと頬に手をあてる。
意識は無かったと聞いていた。あと少し早くても、言葉を交わす事は出来なかったかもしれない。それでも、ほんの少し、ほんの少しだけ早ければ、淳一を生きている母親に会わせる事が出来たのに。だから何が変わるというわけでもないのに、今は、間に合わなかったという事実だけが重たくのしかかってくるようだった。
淳一は、哀れむように、慈しむように母親の死に顔を覗き込んだまま動かなかった。だが、いつまでも時間は止まってはいない。いやもおうも無く人は歩き出さなければならない。
「バイ。……お袋。満足して逝けたろ。俺を男に売った金でさ」
なぜだろう。まっしろな顔をした淳一がその場で昏倒するかと思った。だが、彼は倒れなかった。くるりと振り向くと、ずっと僕が掴んでいた腕を勢いよく振り払うと、階段を駆け降りて行った。
くそっ。高原。お前、帰ったらこのツケは二倍にして返してもらうからな。一番肝心の時に、一番必要な時に、なんでそばにいてやらなかったんだ。
思うように走れない体にいらだちながら、淳一の姿を探して、階段を駆け降り、待合室を突っ切って外へ出ると木立の間を抜けた。なんで、こうやたらと庭が広いんだ。だが、かくれんぼをするつもりは無かったらしく淳一は、ベンチの並ぶ市街地を見下ろす遊歩道の切れ目の所に立っていた。
眼下に広がる青森の街を茫然と見下ろしている。息を切らしてやっと追いついてきた僕を不思議そうな子供の目で振り返った。
「なんで追いかけてきたのさ。」
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