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9、1メーターの距離

ここでは、「9、1メーターの距離」 に関する記事を紹介しています。

 果てのない失望の繰り返しの末に人は諦めを覚えていくものではないのだろうか。彼女の側で秘書として完璧なルーティンをこなしながら、僕は自分を納得させようと四苦八苦していた。彼女が記憶を失ったと知った病室でのあの瞬間に、僕は、何も考えずに彼女を抱き寄せるべきだったのだ。そうすれば少なくとも、彼女に僕が彼女の恋人だったと打ち明けるのはたやすかったのではなかろうか。
 だが、僕はその時、躊躇ってしまったのだ。本当に、僕は、彼女の恋人と言えるのだろうか。僕は彼女を敬い、彼女に跪くべき僕(しもべ)なのではないか。だとしたら、それは一般社会に公にすべき立場ではなかった。彼女のためにもそれを医者の前で口に出しようがなかった。
 僕は手を伸ばすのを躊躇った。そして、次の瞬間、すでに彼女にとっては、僕は見知らぬ男に落ち果てていた。まっすぐ僕を見つめた瞳がはっきりとそれを僕に教えた。
 僕の事を知らない瑞季。
「あなた……だれ?」
 だれ。だれ。だれなの。
「東野、アビスっていう会社の決算報告書を廻してくれない?」
 記憶にあるものよりもずっと優しく柔らかい声が、一言々々を確かめるように指示を出してくる。記憶を失った瑞季は、まるでゆきのようにゆっくりとしゃべる。もっとも、はきはきとした大人の女性の話し方で、舌っ足らずな物言いは全く無かったが。
 物思いは突然途切れ、僕は仕事中に余計な事を考えていた事に、心の中で舌打ちした。彼女の頭の回転に付いていくためには、一瞬の気の緩みも許されない。過去の蓄積したデータを演算する事で判断のよりどころとしている僕は、彼女の倍のスピードで先を行かなければ彼女の仕事に付いて行く事ができないのだ。
 阿吽の呼吸で仕事をこなせるようになっていたとはいえ、今は、彼女の頭脳データベースの代わりを兼任しているために、気を抜くと彼女に必要な情報を読みそこないかねなかった。
「今、ファイルを送ります」
 一心にディスプレイの中の画面をスクロールさせていた彼女が、ふと顔を上げて僕を見た。
「東野?あなた、疲れているんじゃない?」
 いきなりの不意打ち。お互いの間にあったはずの距離を飛び越えて、気が付くと懐に飛び込んできている。驚いて、下がろうとしてもしっかりと掴まれていて、逃げようが無くなっている。息を吸い込んで、襲い掛かってくるデジャブを振り払った。
「いいえ。平気です。申し訳ありません、ちょっとぼんやりしておりました。指示された決 算書のファイルは、今送付しました。届きましたでしょうか」
「ええ、来たわ」
 カチ、カチ、とクリックする音が響き、彼女はパソコンへ視線を戻した。僕はほっと息を付くと、アビスの関連会社についての情報をデータベースから検索し始めた。
「プリントアウトで欲しいわ。そっちで印刷できる?」
「できます」
 すぐに、画面を起動させて印刷を始める。目の端に、立ち上がって窓辺へ移動する瑞季の姿が見えた。コツコツとハイヒールの音がして、ブラインドが巻き上がる。プリンターが音を立てて印刷した紙を排出し始めた。かすかな機械音だけが部屋の中に響く、僕はパソコンを覗き込む振りをして彼女の背中を見つめた。
 腕を組んで、窓に寄りかかるようにして立つ彼女の背中。白いシャツに紺のタイトスカートという、シンプルな服装でいながら、ただ立っているだけでもあかずに見つめずにはいられない。
 プリンターが止まると同時に立ち上がると、印刷された用紙をまとめて左肩をホチキスで留める。そのまま彼女の背中に近づいていく。
「ねぇ、東野。私、どうして記憶が戻らないんだと思う?」
「それは……」
 くるり、と踵で廻った彼女は、僕の差し出した書類を見ないで受け取り、ちょっと眉を上げてみせる。
「記憶が戻らないと、東野は不便じゃない?」
 心臓の鼓動が跳ね上がるのが分かった。彼女との距離は1メーター。手を伸ばせば届く距離だ。間近に覗き込む瞳が、僕を誘うかのように細められる。もう一ヶ月、彼女に触れていない。僕は考えも無しに動こうとする自分の身体を必死に押さえつけた。
 世界があっというまに消滅し、瑞季の存在だけがくっきりと色が付いて迫ってくる。僕は表情を変えまいとして、ぱちぱちと瞬きをした。大丈夫です。不便などありませんよ。口を開けたのに、言うべき言葉が舌の上で凍り付いて流れ出てこなかった。思い出して。僕の事を思い出してください。
 手を伸ばして瑞季の身体を引き寄せたい。腕の中に抱きしめたい。思いっきりきつく抱いて確かめたい。瑞季。僕の瑞季。お願いだから。幸せだと言って。記憶を無くす前よりも、今は幸せだと。でなければ僕は耐えられない。これほどのものを失ったのに。何も君に与える事が出来ないなんて。
 震える手を必死に握り込む。ダメだ。出来ない。彼女にとって今や僕はただの秘書、ただの部下なんだ。どれほど愛おしく思っていても彼女の驚きを思うと、行動に出る事が出来なかった。
 本当は彼女を揺さぶって聞いてみたかった。彼女がトラウマの記憶を思い出して、それが彼女の中にしっかりと根付いたのかどうか。ゆきと瑞季がひとつになって、今の新しい彼女になったのだという事を確かめたかった。だが、彼女から口に出さないのに、うかつに過去の話をして、もし、あの邂逅が一瞬のものだったとしたら。
 彼女が再びあの記憶を封印してしまっているとしたら。そう思うと、うかつには何も言葉に出来ず、なにも行動に移せない。彼女の幸せを願うばかりに、がんじがらめになって立ち竦むだけ。
 なにか、何かあるはずだった。このふさがった迷路を脱出する方法が。
 書類をめくって読み始めた瑞季から1メーターの距離。これが、僕に許されたただひとつのものだとしても。瑞季、君を愛している



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コメント
この記事へのコメント
 社長の側にはあんまり寄れないだろうな。
30センチって、けっこう近いよ。
嫌いな人とはそんなにくっつけないよね。
もっと、距離を・・・・みたいに。
2007/01/13(土) 18:22 | URL | さやか #DS51.JUo[ 編集]
会社関係のビジネスの相手と話すときって
なんとなく常に…お互いの空間は30センチ以上の間が
あるような気がする。
ビジネスライクな関係ってやつです。
・・・東野さん、1メートルか・・・。
耐えるのよ!!!
2007/01/11(木) 15:26 | URL | せつな #3/VKSDZ2[ 編集]
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