「ねえ、お尻を叩いた事ある?」
ドライブから戻ってきた後、マンションのいつもの部屋に落ち着いた僕たちは、ゆっくりとお風呂で温まった。タオルで髪を拭きながら部屋へ入って行くと、先に風呂に入った瑞季は、ピンク色の肌に紫のシルクのガウンを纏いつけ、肩にかかる髪はまだシャンプーの香りに湿らせたままベッドの上にちょこんと座っていた。透明の泡の立つ飲み物を飲んでいる。
「叩かれた事はあるけど……」
「叩いた事はない?」
僕は瑞希の横のベッドに斜めに腰を預けて、彼女の手から飲み物をひょいと取り上げて一口飲んだ。冷たく冷やしたシャンパンだった。バカラのフルートグラスに注がれている。
「何かお祝い?」
「ううん。別に。ランソンのブラックラベルよ」
「シャンパンが好きだったんだっけ?」
「わからない。何が好きだったのか、嫌いだったのか。覚えてないんだもの」
彼女は手を伸ばして、グラスを取り戻す。
「でも、これおいしいわ。私、きっと大酒のみだったわね」
「う…ん。弱くは無かったと思うけど」
「叩いてみたくない?」
「どうして、そんな事を?……記憶を無くす前に、瑞季はSだったんだよ」
瑞季はわざとらしく眉をしかめた。
「なぜ、私はSだったのかしら。どうしてMじゃなかったの?女の子はたいていMなものでしょう?」
「うーん、性別で決まるものじゃないと思うけど……」
「自分で試してみて選んだのかしら。だとしたどうやって?」
「最初の頃の事は、僕は知らないんだ。僕の知っている瑞希は、最初からSだった」
僕は真樹の事を思い出していた。彼女を彼に会わせてみたらどうなるのだろう。もし、その瞬間に記憶が戻ってきたら、僕はどうするのだろうか。そして、彼女はどうするのだろうか。
「その頃のお相手に会ってみる?」
瑞季はますます顔をしかめてみせる。
「気が進まないわ」
それから、グラスを一気に傾けて喉へ流し込むと、ベッドサイドのテーブルのお盆の上にそっと乗せた。
「なんだか。…分からないけど、怖い。見るのが怖い。知るのが怖い。自分の本性と向き合うのが…怖いの」
そして、ベッドの枕へ身体を投げ出した。
「私、きっと残酷な人間だったんでしょ。酷い女だったんでしょ。人を痛めつけて喜ぶなんて最低よ」
彼女の横へ滑り込もうとしていた僕はびっくりして、顔を覆っている彼女の手をつかんで、引き寄せた。彼女の大きな瞳は涙で濡れている。
「違う。そうじゃなかった。そんなふうに思ったことはないよ。君はただそれが必要だっただけだ」
「じゃあ、和希は?和希は別にもともとSMが好きだった訳じゃないでしょ?」
「僕は、あなたが好きだったんだ」
「なんで、そんな酷いことを許したの?」
「酷くなんかなかった」
「鞭で打つことが?傷つけて、血を流させて…」
「瑞季、やめなさい」
思わず、強く遮ってしまって、彼女がビクッと身体を引くのを見て、心が痛んだ。記憶が無い時に自分の侵した罪に怯えている小さな少女のようだった。
「ちゃんと聞いて。僕はそれが嫌じゃなかった。君に与える事が出来て満足だったんだ。僕は自分から君にそうさせた。瑞季が無理強いした訳じゃない」
噛み締めた唇が震えているのを見て、僕はそっとその唇を抑えて開かせる。
「傷がつくよ」
黙って俯いていた彼女は、顎を上げると、強い瞳で僕を見つめてきた。
「お尻を叩いて」
「本気なの?」
「知りたいの。私があなたに与えていたもの。あなたが私から受け取っていたもの」
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