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皮膚感覚的表現

ここでは、「皮膚感覚的表現」 に関する記事を紹介しています。
 水樹は、向かい側に座った男が何気なく肘を付いている喫茶店のガラステーブルの上を見つめていた。男の肘が置かれた位置から、じわじわと何かが滲み出てきている。濁った灰色と毒々しい赤が交じり合っているような液体は、見つめていても分からないぐらいの速さで、茶色のガラスの上に拡がり始めていた。
 周囲の景色が歪んで写っている液体の縁の盛り上がりは、男の指紋や手の脂がベタベタとついているガラステーブルの上で、ゆっくりと、確実に領土を拡げて行っている。
 水樹の背筋を冷たい汗がつたい降りる。じっとりと汗をかいているのに、汗に覆われた水樹の身体は冷たかった。嫌悪に、ぞっと髪の毛が坂だったような気がして、水樹は、必死に視線をそらし、見慣れたいつもの窓の外を見ようとしたが、捉えられた風景は黄色いタオルが干されていることぐらいで、目を逸らしながらも、その物質が伸び拡がっていくのを横目で確認せずにはいられなかった。
 恐怖を押さえつけて、その液体に触れた日もあった。ぬちゃああ・・と粘り、糸を引いて自分の指を男の肌と繋いだものが、自分の身体をの上に這い広がっていく感覚に、「どうした?」と尋ねる男の不審な目も構わずに、必死に手を振り払い、洗面所に駆け込んだのを覚えている。
 気が狂ったように石鹸に手をこすり続け、便座に顔を突っ込み吐いた。何度もレバーを引いて、渦を巻いて流れていく水に、自分の思いも流してしまいたいと願った。

 水樹が「相手の身体から滲み出てくる何か」を見るようになったのは、去年、近道のために通った公園の裏道で、男に植え込みの影に引き倒されて乱暴された時からだった。殴り飛ばされた頬は骨折し、唇は大きく切れていた。腫れ上がった顔も、息をする度に痛む肋骨も、紫色に変色した痣だらけの身体も、自分のものと信じられず、汚らしさに身がすくんだ。
 人の身体が、何かに触れているその場所から滲みだしてくる粘液。最初は、混乱した水樹の心は、自分が目にしているものを受け入れられなかった。目の錯覚と自らに言い聞かせ、やがて、幻覚を見ているのだと考えた。でも、どうやっても、それはそこにあり、その現象も消えてはくれなかった。 
 医者も、看護婦も、家族も、「かわいそうに」を、顔にはりつけて、ぎこちなく笑いかけて来た。診察しようと手を伸ばしてくる医者の指の先からも、それが滲み出ていて、自分の肌に押し付けたまま少しでも時間が経過すると、それが私の体に塗りつけられるような気がして、すくみあがった。
 触れていた身体が離れていくと、その場所に「それ」は、残る。時間が経つとやがて蒸発し、触ると、甘ったるいジュースをこぼしてそのまま乾いた後のような、肌が張り付くような感覚の染みになった。粘着テープを触った時のような。そして、かすかな腐臭が残る。水樹は、周囲が困惑するほどの潔癖症になって、自分の周囲をアルコール除菌のウェットティッシュで拭きまわるようになってしまった。その行為は、周囲の「かわいそうに」を、増殖させ、水樹は、いつもそれを意識して生きるようになった。
 その液体は人によって色も、粘度も、匂いも違っていた。おそらく味も違うのだろうけど、そんなことを試せるほどの度胸はない。ただ、ひたすら「消えて」と、願い続けるしかなかった。この現象も、その粘液も、そんなものを引き起こした事実も。
 犯人はまだ捕まっていない。

 もしも、自分が、大好きで、大好きで、いつもその姿を目で追い、いくら見つめていても見飽きることもなく、そばに寄るだけで胸が暖かくなり、微笑みを向けられれば、嬉しさで胸が張り裂けそうになるような人がいたら、どんなになっていたのだろうか。
 その人の、肌からも、それは、滲み出てくるのだろうか。どんな色、どんな匂いがするのだろう。もし、その人に抱きしめられたら、お互いの肌がくっついた場所から、それは滲み出てくるのだろうか。それでも、私は相手の腕の中で、うっとりとしていられるのだろうか。
 恐ろしいのは、自分では自分のそれを見る事が出来ないのだけれど、相手が、それを見る事が出来る人だったらどうなるのだろう・・・と、いうことだった。相手に触れる喜びに熱くなった自分の毛穴が一斉に開いた時、そこから濁った汚水が滴り落ちていたら、どうすればいいのだろう。美しい相手の身体の、透き通ってさらさらとしたそれと、自分のぬちゃぬちゃぬるぬると相手を絡め取ろうとする粘液が、大好きな人の肌の上で交じり合い、身体を動かす度にきたならしい音をたてるとしたら・・・水樹には到底耐えられそうになかった。
 多分、多分だけれど。この粘液は、相手の考えや、気持ちや、今までしてきた行いや、積み重ねてきた罪が作り出すのではないだろうか。美しい人は美しい花の密蜜のような粘液をしたたらせ、人の心を絡めとり、甘く酔わせることができるのだ。
 けれど、どう考えても、自分の身体からそんな美しいものが出てるとは思えなかった。水樹の周囲には、そんな人は一人もいない。水樹が惹かれる相手も、いままでも、これからも、現れはしない。水樹にはそんな未来が許されているはずがない。大好きな相手に、自分の考えてる事を、自分の感じてる事を、自分の辿ってきた生き様を見せるなんて耐え切れない。

 今、正面に座っているのは、血の繋がった水樹の父親である。母を殴って、足蹴にし、骨折させて離婚することになった後、父の権利なのか、子の権利なのか、一年に一度だけ、面会する事を許されている。
 水樹は、彼を、悪い父だったとは思っていなかった。小さい頃は、手をつないで、川べりを散歩したり、肩車をしてもらったりしたこともあった。よく、一緒にお風呂に入って、身体を洗ってもらった。同じ布団に入って眠り、眠りにつくまで身体を撫でてもらったこともあった。
 その向けられる笑顔が、鬼のようだと思ったのは、夢だったのだろうか。現だったのだろうか。
「水樹、怪我の具合はどうなんだい?顔が思ってたよりも、綺麗に治って、お父さん、ほっとしたよ。」
 男の手が無造作に伸ばされて水樹の手に軽く触れた。水樹の肩がびくっと跳ね上がる。その瞬間、塞がれていた記憶に、切れ目が入り、次々と自分が襲われた暴力が蘇ってきた。まるで、普通の光景をぶった切って、雷が落ちてきたようだった。
 あの、眼の裏が真っ黒になり、火花が散って、何一つ考えることができなくなった時間。自分の顔を殴りつけ、倒れた所を、足首を掴んで、低く茂った木の間を、乱暴に、身体中に樹の枝で引っ掻き傷ができてしまうのも頓着無く引きずった。泣いているような、しゃくりあげるような罵声・・・それは確かに・・・父親だったのだ。
 こうして向かい合って座り、男の鬼の様な微笑みを見て、どこか棒読みの語りかけてくる声を聞きながら、鮮烈に戻ってくる記憶と、だんだんと世界が大きく広がり、自分が小さく縮んでいく感覚の中で、両手の握りしめた拳をテーブルに押し付けながら、水樹は、ただ小さく震えていた。
 あの拡がり続ける粘液に飲み込まれる前に、男の腕に捕まって、また、痛い目にあわされ、身体から出る粘液を自分の下腹に擦り付けられる前に・・・戻ってきたこの記憶を消せたら・・・。それが出来ないのなら、このテーブルをひっくり返し、逃げ出したい。水の中を掻き分けて進むときのように、スローモーションで、もがき出る自分の姿が、瞼に浮かぶ。
 小さい箱の中に、自分の記憶を押し込め、二度と開かない重石を乗せようと、じたばたと水樹はもがいた。その間も、あの粘液はゆっくりと移動し、彼女のテーブルに押し付けた手の方へ、じわじわと近づいていた。
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