「あーん、どうしよう。どうしたらいいの?」
佐久間みゆきは、低いテーブルの上に並べられた三本のパドルを前に焦りまくっていた。
パドルとは、お尻を叩くためのしゃもじのような道具のことを言う。たいていはしゃもじよりも、もっと凶暴な働きをするのだが、少なくとも形はそうだ。原型はボートを漕ぐ道具から来ているらしい。
何を隠そう、みゆきは、子供の頃から、説教とお尻叩きがセットになっている「スパンキング」という行為が大好きで、今いるこの部屋は、ネットのSNSで知り合った同好の士のたまり場になっている場所だった。お尻を叩く側をカー、叩かれる側をキーといい、やっていることはただお尻を叩くだけなのに、一人ひとりにいろんなこだわりがあり、それがややこしくて、また楽しい。あまりにも変な趣味なので、みゆきも三ヶ月前までは、心の中にしまいこんでいた「憧れ」だった。
「あなたが落としたのは、樫の木のパドル?それとも、オリーブのカッティングボード?それとも、革のパドルかしら?」
机を挟んで座っているのは、今日、ここに、みゆきと連れ立ってやってきた女性で、櫻守さやという。多分、ここでは、一番の年嵩で、いつもにこにことして、お母さんのような存在だ。
「お湯が沸きましたよ。早くお仕置きをすませて、櫻守さんの持ってきてくれたケーキを食べましょう。」
しれっとした顔で、台所から顔を覗かせたのは、この部屋の主である手嶌御津彦である。30代の独身男性なのに、やたらとマメで、妙に頼りがいがある先輩的雰囲気を醸し出しているが、その実は、冷酷非道の悪魔の様なお仕置きをすると言われている。
「ちゃっちゃと済ませられると思ったら大間違いよ。聞いてよ。手嶌くん、この娘ったら、エレベーターのボタンを殆ど全部押しちゃったんだから。」
「だってだって、さやちゃんが降りる階のボタンを押したら、その周りの数字たちが、ぴかぴかって光って「僕達のことも忘れちゃ嫌だよー」って、私の事を呼ぶんだもの。それを見たら、かわいそうで、思わず手が出ちゃったの。だから、私のせいじゃないって。他のボタンさんが、寂しくないように、一生懸命、降りる階の上の階のボタンを選んで押したんだよ。それに、普段はとろ、いや、おっとりしてるさやちゃんが、あんなに素早く私の手を掴むとは、思わなかったから、エレベーターが降りる階で停まったんで、下の階のボタンも大急ぎで押そうとしたんだけど。」
「こらっ!って、言ってるのに、やめないで、続きを押そうとするんだもの。他の人にすごい迷惑だって事、分からないの?」
「手嶌さんのマンションって、昼間は出入りする人そんなに多く無いと思う。大丈夫。大丈夫。それに、乗ってきて、予めボタンが押してあったら、自分で押す手間が省けるじゃないですか。『きゃあ、嬉しいっ。』って、思ってくれるに違いありませんって。ねえ、手嶌さん、そう思うでしょ。」
「そこで同意を求められても、私が『そう思います。』って、言う訳にはいかないでしょう?みゆきさん。そうか。それでやって来るなりのお仕置きになった訳ですね。ケーキの手土産だけでなく、スパンキングも付いて来るとは、素晴らしい心配り、ありがとうございます。」
手嶌は、苦笑すると、さっさとまた台所の方へ戻っていってしまった。見捨てられたみゆきは、うーうー唸っている。
みゆきが自分の性癖に気がついたのは5つの時だった。TVアニメに出てきたお仕置きのシーン。おじいさんの膝の上に乗せられて、お尻を叩かれている女の子に、目が釘付けになってしまい、鷲掴みにされたようなショックを受けた。もちろん、その時は、その感情が性癖だとは思ってもいなかった。今でも、実のところ思っていない。変な趣味。好きでたまらないだけ。そんな気持ちでいる。
ただ、お仕置きの事が常に頭から離れない。テレビや本の中に、ふと、顔を覗かせる「お尻叩き」に魅せられてしまっていた。めったに現れない事だけに、そんなシーンを目にすると、何度も何度も思い返しては、妄想にふけらずにはいられなかった。
その行為に「スパンキング」と言う名前が付いていて、それが好きな人が少なからずいるのだと分かったのは、家の中にインターネットとパソコンが入ってきた中学生の時だった。
「悪い事をして、叱られて、お尻を叩かれる」という行為は、彼女の中でこね回されて、静かに発酵し、膨らみ続けていたけれど、それが好きだって事は、どう考えてもおかしいという事は分かっていた。どこかいけないことのように感じてならなかった。だから、誰かにうちあけて、理解してもらえる日がくるなんて、思ってもみなかった。
「ほら、早く。あなたの落としたパドルはどおれ?」
「私、落としてなんかいません!この中には私の落としたパドルはありませんっ!あーん、正直に言ってるのにぃ。」
「そこで、正直を発揮しても、叩く回数は減らないからね。」
「だってだって、さやちゃん、このチョイスって酷すぎるー。革のパドルはSMっぽいから論外だし、残りの2つのどっちかって言ったら、カッティングボードの方がまだましじゃないですか。」
「だったら、それを選べばいいでしょう?」
「だけどーーー!それじゃ、お仕置きって感じがあまりしないじゃないですか。雰囲気からしても、風格からしても、どう考えたってこの長くて重い、いかにも痛そうな樫の木のパドルには負けちゃいます!」
「なんで、わざわざ痛い道具の方を選ぶのかさっぱり分からないけどなぁ。それも、とんでもなく、おそろしく、痛いのに。」
櫻守は、わざとらしく最後の言葉を低い声で、強調する。みゆきが痛みと自分の好みのムードを醸し出す道具の間で、選択を逡巡しているのを見て、楽しんでいる。
「じゃあ、樫の木のパドルで20回ね。机の上に手を付いて、お尻を突き出して。」
殊更にゆっくりと重い木のパドルに手を伸ばした櫻守は、みゆきの目の前でびゅうんと素振りをしてみせる。風を切るその音が、その道具の真価を表していて、みゆきは震え上がった。泣きべそをかきながらも、それでも、楽な革のパドルにする・・・・・・と、言わない所が、流石の変態キーの面目躍如であった。
その後20回の悲鳴と、みゆきのありったけの懇願が部屋を満たしたのは言うまでもない。
痛みのために汗びっしょりになり、ほてった顔と身体を持て余したみゆきは、窓を開けてベランダへ出て行った。5月の風が、彼女のもつれた髪をそよがせる。ずきずきと痛むお尻と、不思議とクリアになった気持ち。胸いっぱいを満たす幸福感が、身体を押し広げ、みゆきは、両手を伸ばして、うんっと背伸びをした。
「みゆきったら、ベランダに出ちゃだめよ。」
「どうしてです?ベランダには、いたずらできるような危険なものはありませんよ。柵によじ登れるような踏み台とかもありませんし。」
「だって、こないだ、向かいの喫茶店に行ったら、ここのベランダって結構丸見えなのよ。しかも、なんかあやしい人たちばっかり住んでるでしょ?このマンション。みゆきがそういう仕事の女の子だと思われると困るじゃない。」
「櫻守さんって、ほんとに心配症ですね。それに、私だって、悲鳴と打擲音を周囲に響かせる、むちゃくちゃあやしいあやしい住人だって思われてるのは確実です。」
ふたりの会話を聞きながらみゆきは、くすっと笑った。仲間を見つけた。それが、今のみゆきにとっては、空を飛べるほどの喜びだった。
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佐久間みゆきは、低いテーブルの上に並べられた三本のパドルを前に焦りまくっていた。
パドルとは、お尻を叩くためのしゃもじのような道具のことを言う。たいていはしゃもじよりも、もっと凶暴な働きをするのだが、少なくとも形はそうだ。原型はボートを漕ぐ道具から来ているらしい。
何を隠そう、みゆきは、子供の頃から、説教とお尻叩きがセットになっている「スパンキング」という行為が大好きで、今いるこの部屋は、ネットのSNSで知り合った同好の士のたまり場になっている場所だった。お尻を叩く側をカー、叩かれる側をキーといい、やっていることはただお尻を叩くだけなのに、一人ひとりにいろんなこだわりがあり、それがややこしくて、また楽しい。あまりにも変な趣味なので、みゆきも三ヶ月前までは、心の中にしまいこんでいた「憧れ」だった。
「あなたが落としたのは、樫の木のパドル?それとも、オリーブのカッティングボード?それとも、革のパドルかしら?」
机を挟んで座っているのは、今日、ここに、みゆきと連れ立ってやってきた女性で、櫻守さやという。多分、ここでは、一番の年嵩で、いつもにこにことして、お母さんのような存在だ。
「お湯が沸きましたよ。早くお仕置きをすませて、櫻守さんの持ってきてくれたケーキを食べましょう。」
しれっとした顔で、台所から顔を覗かせたのは、この部屋の主である手嶌御津彦である。30代の独身男性なのに、やたらとマメで、妙に頼りがいがある先輩的雰囲気を醸し出しているが、その実は、冷酷非道の悪魔の様なお仕置きをすると言われている。
「ちゃっちゃと済ませられると思ったら大間違いよ。聞いてよ。手嶌くん、この娘ったら、エレベーターのボタンを殆ど全部押しちゃったんだから。」
「だってだって、さやちゃんが降りる階のボタンを押したら、その周りの数字たちが、ぴかぴかって光って「僕達のことも忘れちゃ嫌だよー」って、私の事を呼ぶんだもの。それを見たら、かわいそうで、思わず手が出ちゃったの。だから、私のせいじゃないって。他のボタンさんが、寂しくないように、一生懸命、降りる階の上の階のボタンを選んで押したんだよ。それに、普段はとろ、いや、おっとりしてるさやちゃんが、あんなに素早く私の手を掴むとは、思わなかったから、エレベーターが降りる階で停まったんで、下の階のボタンも大急ぎで押そうとしたんだけど。」
「こらっ!って、言ってるのに、やめないで、続きを押そうとするんだもの。他の人にすごい迷惑だって事、分からないの?」
「手嶌さんのマンションって、昼間は出入りする人そんなに多く無いと思う。大丈夫。大丈夫。それに、乗ってきて、予めボタンが押してあったら、自分で押す手間が省けるじゃないですか。『きゃあ、嬉しいっ。』って、思ってくれるに違いありませんって。ねえ、手嶌さん、そう思うでしょ。」
「そこで同意を求められても、私が『そう思います。』って、言う訳にはいかないでしょう?みゆきさん。そうか。それでやって来るなりのお仕置きになった訳ですね。ケーキの手土産だけでなく、スパンキングも付いて来るとは、素晴らしい心配り、ありがとうございます。」
手嶌は、苦笑すると、さっさとまた台所の方へ戻っていってしまった。見捨てられたみゆきは、うーうー唸っている。
みゆきが自分の性癖に気がついたのは5つの時だった。TVアニメに出てきたお仕置きのシーン。おじいさんの膝の上に乗せられて、お尻を叩かれている女の子に、目が釘付けになってしまい、鷲掴みにされたようなショックを受けた。もちろん、その時は、その感情が性癖だとは思ってもいなかった。今でも、実のところ思っていない。変な趣味。好きでたまらないだけ。そんな気持ちでいる。
ただ、お仕置きの事が常に頭から離れない。テレビや本の中に、ふと、顔を覗かせる「お尻叩き」に魅せられてしまっていた。めったに現れない事だけに、そんなシーンを目にすると、何度も何度も思い返しては、妄想にふけらずにはいられなかった。
その行為に「スパンキング」と言う名前が付いていて、それが好きな人が少なからずいるのだと分かったのは、家の中にインターネットとパソコンが入ってきた中学生の時だった。
「悪い事をして、叱られて、お尻を叩かれる」という行為は、彼女の中でこね回されて、静かに発酵し、膨らみ続けていたけれど、それが好きだって事は、どう考えてもおかしいという事は分かっていた。どこかいけないことのように感じてならなかった。だから、誰かにうちあけて、理解してもらえる日がくるなんて、思ってもみなかった。
「ほら、早く。あなたの落としたパドルはどおれ?」
「私、落としてなんかいません!この中には私の落としたパドルはありませんっ!あーん、正直に言ってるのにぃ。」
「そこで、正直を発揮しても、叩く回数は減らないからね。」
「だってだって、さやちゃん、このチョイスって酷すぎるー。革のパドルはSMっぽいから論外だし、残りの2つのどっちかって言ったら、カッティングボードの方がまだましじゃないですか。」
「だったら、それを選べばいいでしょう?」
「だけどーーー!それじゃ、お仕置きって感じがあまりしないじゃないですか。雰囲気からしても、風格からしても、どう考えたってこの長くて重い、いかにも痛そうな樫の木のパドルには負けちゃいます!」
「なんで、わざわざ痛い道具の方を選ぶのかさっぱり分からないけどなぁ。それも、とんでもなく、おそろしく、痛いのに。」
櫻守は、わざとらしく最後の言葉を低い声で、強調する。みゆきが痛みと自分の好みのムードを醸し出す道具の間で、選択を逡巡しているのを見て、楽しんでいる。
「じゃあ、樫の木のパドルで20回ね。机の上に手を付いて、お尻を突き出して。」
殊更にゆっくりと重い木のパドルに手を伸ばした櫻守は、みゆきの目の前でびゅうんと素振りをしてみせる。風を切るその音が、その道具の真価を表していて、みゆきは震え上がった。泣きべそをかきながらも、それでも、楽な革のパドルにする・・・・・・と、言わない所が、流石の変態キーの面目躍如であった。
その後20回の悲鳴と、みゆきのありったけの懇願が部屋を満たしたのは言うまでもない。
痛みのために汗びっしょりになり、ほてった顔と身体を持て余したみゆきは、窓を開けてベランダへ出て行った。5月の風が、彼女のもつれた髪をそよがせる。ずきずきと痛むお尻と、不思議とクリアになった気持ち。胸いっぱいを満たす幸福感が、身体を押し広げ、みゆきは、両手を伸ばして、うんっと背伸びをした。
「みゆきったら、ベランダに出ちゃだめよ。」
「どうしてです?ベランダには、いたずらできるような危険なものはありませんよ。柵によじ登れるような踏み台とかもありませんし。」
「だって、こないだ、向かいの喫茶店に行ったら、ここのベランダって結構丸見えなのよ。しかも、なんかあやしい人たちばっかり住んでるでしょ?このマンション。みゆきがそういう仕事の女の子だと思われると困るじゃない。」
「櫻守さんって、ほんとに心配症ですね。それに、私だって、悲鳴と打擲音を周囲に響かせる、むちゃくちゃあやしいあやしい住人だって思われてるのは確実です。」
ふたりの会話を聞きながらみゆきは、くすっと笑った。仲間を見つけた。それが、今のみゆきにとっては、空を飛べるほどの喜びだった。

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