スーツケースには大きなキャスターがついているに限る。あんまり力の強くない私は、そう思う。それに、4個ついていることは言うまでもない。後ろに引っ張る2輪式は、取り回しにコツがいり、その上荷物を詰め込むと重くなるのだ。
「1泊のお出かけなのに、なんでそんなに荷物が多くなるのか。」と、よく夫に言われる。一番の悪者はパソコンである。普段使っているノートをそ のまま持ち歩くのでこれが結構重い。着替えをもう一泊分余計に持って行きたがるのも私の悪癖である。何かアクシデントが起きて服を汚してしまったり、汗を かいて着替えたくなったり・・・そんな時のために備えてもう一組。何しろ「もしも」が、好きな人なので、綿棒からとげ抜きからビニール袋まで、普段の移動 の時でもバックの重さはピカイチである。
それから、自分専用の縄。今回は縄を習う機会があるかもしれないから、自分の縄が必要なのだ。縛られている時は全く重さを感じないのに、束にま とめて持ち歩くとこれがまたずっしりと重い。そしてスパンキングラケット、オーダーして作ってもらったお気に入りの、のたりと丸くとぐろを巻く、長くて黒 い一本鞭と短いピンクのバラ鞭。芯が無くて、先が柔らかいからあまり痛くない短い鞭。マッチ棒のような先っちょを持っているローター。
あれやこれや思いつくものを詰めているうちに、黒いキャリーバッグは、もう、パソコンを押しこむだけのスペースしか空いていない状態になる。おみやげを買うわけじゃないからまあよいだろう。ぎゅうぎゅうと詰め込んで蓋を閉めた。
家の中をぐるりと一回り。窓を閉めて、電気を消して回る。お風呂の予約をして、夫の下着の着替えを脱衣場に置いて。最後に玄関の灯りをつける。妻がいない家に帰ってくる夫が、鍵を開けるのに苦労しないように。
考えるのは自分の方向音痴の事。今日の目的地は初めて行く所だから用心のために、縮尺の大きいのやら小さいのやら、グーグルマップを何枚も印刷 して来たのだけど、ちゃんと辿り着けるかどうか分からない。最寄り駅から家に帰る時でさえしばしば迷う私だから。ほんとだったら真っ直ぐ行く道を、何も考 えずに左に曲がってしまう。左へ曲がる道は何本もあって、どれも同じように見えるし、曲がった後も同じような住宅地。だから気が付かないで迷子になってし まうのだ。
幾つかの駅で電車を乗り換えて、えっちらおっちら、キャリーバッグを抱えて、階段を昇りそしてまた降る。今、通り過ぎた駅はなんて名前だっただろう・・・。ああ、去年までは、私はこの駅で降りていたのだった。でも、もう、二度とこの駅で降りることはない。
冷房の効いた車内と違い、むっと熱い風が吹き抜ける地上の道を、ガラゴロ音を立てながら付いてくるキャリーの音を聞きながら歩く。ただひたすらガラゴロガラゴロ。
ずっとここの所、考えても益体もない繰り言を頭の中で繰り返してきたせいか、それともいつもの習性か。ただ、なんとなく。こんなにまっすぐ歩く はずはない・・・・と、いう勝手な判断に基づいて、またしても曲がるべきでないはずの道をつい右へ曲がってしまった。地図を回してみていてもなんのかいも ないのである。
入り口を入るとそこはガランとしたホールだった。置き捨てられた壊れかけた家具や、外れてしまった建具がそこかしこに立てかけてある。割れてしまったガ ラスの窓には外から板が打ち付けられていて、その隙間から細い日の光が漏れているだけなので薄暗い。足元には、たまに入り込む人達がそこここで、コンビニ の弁当を食べたのか、ビニール袋やプラスチックのトレイや潰した空き缶が散らばっていた。
病院によくあるカウンター式の受付、そしてその向こうに真っ直ぐ行く通路と右へ曲がる通路が伸びている。診療室のドアが等間隔で並んでいる。
私は落ちている物に躓かないように、足元を確かめながらそろそろと進んだ。キャリーバッグは、玄関のところに置いてきてしまった。それを引いて歩けるような床の状態じゃなかったから。
なにもないところで転ぶことが出来るのも私の才能。障害物がある時はよけいに・・・。まっすぐ伸びている通路に並ぶドアは壁と同じようなグレイ の合板のドアだった。いかにも病院の診察室。多分その向こうには机と診察用のベッドが同じようにならべられた部屋が並んでいるのだろうと想像させるよう な。突き当りの出口に小さく開けられた四角いガラス窓から外の白い光が差し込んでいる。
反対に右側はどうだろう。明かり取りになる窓もなく、並んでいるドアもそしてその向こう側も、ねっとりとその場所にうずくまっている闇の中に消えて行っている。
行きたくないのに、惹きつけられるように、私は右へ曲がってしまう。
小さい頃からの私の定番の夢はいつも同じ。
殺される夢。殺す夢。
たとえば、階段を転げ落ちて縁側のガラスに突っ込む夢。まぶたの上から血がしたたり、真っ赤になった世界の向こうから包丁を持った母がゆっくりと降りてくるのが見える。私の手首を切り取りに来る母が。
殺す夢はもっと悪い。鉈を振りかぶって打ち下ろす。何度も何度も何度も。私の心を埋め尽くすのは怒りだけ。してはいけない事をやっているのが分 かっているのに、背中を這い上がる、せり上がってくるような、締め付けるような何かに追いかけられるように。私は父の体に鉈を振り下ろす。
そして廃屋になってしまった病院の中の通路を歩いている夢。突き当たりにあるのは黒い大きな石の扉。その中に私を生きながら臼で轢き殺してくれ るあの人が待っている。顔を持たないあの人は、懐かしく、恐ろしく、そのゴツゴツと乾いた手でやさしく私の腕を引く。そうしてその大きな臼の中に私をそっ と押しやる。
私は臼の中からあの人が覗きこんでくるのを見上げる。微笑みを浮かべて嬉しそうに私を見下ろす愛しい男の顔を。そして臼の取手にかかった分厚い 手を。あの人が私の身体に、胸に、腹に静かにゆっくりと触れた時のように。容赦なくその手が臼を回すと、私はあの人を見上げたまま、ただ黙ってぽろぽろと 涙を流しながら足の先からすり潰されていくのだ。
どの夢も、痛みと苦しみとそして絞り上げられるような胸苦しさを残していく。もう二度と二度と絶対にあの扉を開けたくはないのに。私はいつもの様に右に曲がってしまう。暗い闇が広がる通路へ脚を踏み入れてしまう。自ら望んで。自ら進んで
突き当りの黒いドアを開けると、違う世界が広がっていた。ラブホテル特有の安っぽさの限りを尽くしている広い部屋大きなベッドの周りを取り囲む、幾何学模様の柄がくっきりと刻まれた壁。二人並んで座るソファの上に、とぐろを巻くいつもの鞭。
ソファの前のテーブルの上に広げられたパソコン。脱ぎ捨てた服は、たたまれてソファの背中にかけられている。彼のスーツはきちんとハンガーに掛けて吊るされている散らかっているものを無意識に拾ってしまう私せめてもの慰めのように並べてしまう私。
ベッドの上に居るのは私に違いない。
私は、セックスで喜びを感じた事がない。気持ちよさは、いつも、掴みどころがなく、ただ体の中をたゆたい。指の先まで拡がっては、身体の中心へ戻っていくだけ。そんな私の身体を、私の上に仁王立ちになっている男は、短いゴムの鞭でところかまわず打っていた。
その鞭は、自転車のタイヤのチューブに使うゴム板を2センチほどの幅に切ってあるゴムで出来ている。ホームセンターへ行くと一束280円で売られてい る。トラックの荷台の荷物が落ちないようにかけるためのゴムだ。そのゴムを適当な長さでくるくると巻き、一箇所をパンの袋の口を縛ってあるようなビニタイ でまとめて止め。もう一度そのビニタイで、止められた場所を二つ折りにして巻いてあるだけの鞭である。
そして、この鞭は、音があまりしない。多分バラ鞭のような構造になってはいても、短くくるくると巻かれているせいなのだろう。その代わり外すこ ともない。自分の手の延長線のように振った所へそのまま打ち付けられる。肉を打つバチッという音が弾けると、表皮の上を熱くて鋭い痛みが、ぱあっと拡がる 重さはないので、奥までは届かないが、続け様に打っていると重なっていく広がる痛みが共鳴しあうのが分かる。
私はその鞭の一振り一振りに、身体を跳ねさせながら、小さな悲鳴を上げながら、ベッドマットにしがみつくように爪を立てていた。背中にもお尻にも交差し肌を埋め尽くす痕が浮き上がっている。
「上を向け。仰向けになるんだ。」
男は冷たく言い放つ。私は、一言もなく、ただ上がっている息をつきながら身体を反転させた。手首の一つでも縛ってもらっていたらもっと違った展 開になっていたかもしれない男は。私を拘束するのを面倒がった。縛られた女は自分では動けない。それがまた面倒なのかもしれない。
仰向けになれば打つ場所は決まっている。横に流れて力ない胸と醜く段をつけた白いうねる腹と。彼は、ただ黙々と私の身体の上に腕を振り下ろす。さんざん打ち尽くされて、しびれるような熱さになっていた背中とは全く違う。新しい皮膚に新しい痛み。
歯を食いしばっても、声が漏れる。痛みが身体に刻み込まれていく。身体を捻り、悶えさせている私の足が緩んだ。
すると男は、その足の間の一度も打たれたことがない場所をめがけて鞭を振り下ろした。
叫び声を上げたことすら気が付かなかった。身体を縮め、熱く焼けるような痛みが拡がって消えて行くのをただ待っているだけしかできない。子供のように小さくなって、丸く小さなひとつの珠になって。消えてしまえたらどんなにかいいのに。
「ほら、足を開くんだよ。」
男は、自分の足でもどかしげに私の足を蹴り広げた。恐ろしさのせいで恥ずかしさなんて意識する暇もなかった。
「いや、痛い。」
なんとか足を閉じようとしても、膝の内側に入った男の足が容赦なく足を押さえつけている。
「ここ、打つぞ。」
「や・・・」
「何回我慢できる?」
男の中では、その柔らかい粘膜を再び打ち据える事は、すでに決まった事のようだった。
「何度だ?」
「じゅっ・・・五回。」
「十回だ。」
「やだっ・・五回・・。」
「十回だ。ほら、足を拡げないか。自分で数えるんだぞ。」
私は、魅入られたように震えながら足を開いた。少しずつためらいながら。男の足がその間に入り、閉じられないようにこじ入れられた。ヒュッ・・・。黒いゴムの塊が落ちてくるのが見える。私は、思わず目を瞑る。
ビュッ!!
焼け付くような痛みというのをご存知だろうか。日頃感じることのない、破裂するような衝撃による痛み。一瞬で弾けて皮膚の上を焼き尽くしていく。
「あああああっ!」
叫んだ時に吐き出した息を大急ぎでもう一度吸い込み、自らの身体を硬くしてその痛みをやり過ごそうとした。ドット汗が噴き出してくる。
「い、一回・・・。」
その痛みが治まらないうちに、次の鞭が噛み付いてきた。私は、のけぞって、その痛みを受け止める。
「ひぃやっ・・・二回・・・・。」
部屋の壁を意識していた感覚がどんどん薄れて、部屋が拡がっていく・・。闇が拡がっていく。外側に広がる意識と、身体の奥に縮んでいく想い。そ の間を切り裂く純粋な痛みに私は身体をのたうたせる。6回目を数えた頃だろうか、鞭と鞭の間隔途切れて、私は、目を開けることが出来た。逃げる事を許さな いかのように立ちふさがる男の身体。そして、見降ろしてくる何もかも受け入れてくれる優しい目。そして、珍しく勃ちあがったその身体から、先走りの滴が私 の上に滴った。
興奮している。
私を打って。この人は興奮している。私が悲鳴をあげ、痛みにもがき、その身体に浮かび上がる赤い縞模様を見て興奮している。白い闇が外側から縮 んできて世界を埋め尽くした。なにもかもが、今日のこの瞬間のために会ったような気がして、私は涙を吹きこぼして泣きながら叫んだ。
「じゅっ・・かー・・い。」
満ち足りた。完成した。許された。贖罪は果たされた。
気がつくと、私は古いビルが作る日陰に、キャリーバックを椅子にして座っていた。辺りを見回しても、さっき入っていたはずの廃屋の病院は見つからない。 何度も繰り返した、眠れない夜を埋め尽くした夢。恐ろしさに震えながら、汗びっしょりの身体を、どこもタオルケットの下から出ないように必死に身を縮めて いた。誰かが、その浮いたタオルの下にある私の足を掴むような気がして。
あの病院は、私の夢のなかだけにある。
汗が引くまで、ぼんやりと、アスファルトの上に日差しが作った影が動いていくのを眺めていた。少しずつ拡がり、なにもかもをその影のうちに取り 込んでいく。あの人の闇からもう私は解き放たれてしまった。もうあの人は、あの駅のマンションには住んでいない。もう私は、あの夢を懐かしむことはない。
終わったのだから。
弾みをつけて立ち上がると、腕時計を見た。大幅に遅刻してしまいそうな気がして、慌てて携帯を取り出す。「ただいま駅から歩いている途中なり。 お損なってごめん。」携帯を閉じると、ガラゴロと音を立てて重い荷物を引きながら、私はまた歩き出す。曲がるはずがなかったまっすぐな道へ戻るために。目 的地に辿り着くために。
そういえば、今日は、あのゴム鞭は置いてきてしまった。
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「1泊のお出かけなのに、なんでそんなに荷物が多くなるのか。」と、よく夫に言われる。一番の悪者はパソコンである。普段使っているノートをそ のまま持ち歩くのでこれが結構重い。着替えをもう一泊分余計に持って行きたがるのも私の悪癖である。何かアクシデントが起きて服を汚してしまったり、汗を かいて着替えたくなったり・・・そんな時のために備えてもう一組。何しろ「もしも」が、好きな人なので、綿棒からとげ抜きからビニール袋まで、普段の移動 の時でもバックの重さはピカイチである。
それから、自分専用の縄。今回は縄を習う機会があるかもしれないから、自分の縄が必要なのだ。縛られている時は全く重さを感じないのに、束にま とめて持ち歩くとこれがまたずっしりと重い。そしてスパンキングラケット、オーダーして作ってもらったお気に入りの、のたりと丸くとぐろを巻く、長くて黒 い一本鞭と短いピンクのバラ鞭。芯が無くて、先が柔らかいからあまり痛くない短い鞭。マッチ棒のような先っちょを持っているローター。
あれやこれや思いつくものを詰めているうちに、黒いキャリーバッグは、もう、パソコンを押しこむだけのスペースしか空いていない状態になる。おみやげを買うわけじゃないからまあよいだろう。ぎゅうぎゅうと詰め込んで蓋を閉めた。
家の中をぐるりと一回り。窓を閉めて、電気を消して回る。お風呂の予約をして、夫の下着の着替えを脱衣場に置いて。最後に玄関の灯りをつける。妻がいない家に帰ってくる夫が、鍵を開けるのに苦労しないように。
考えるのは自分の方向音痴の事。今日の目的地は初めて行く所だから用心のために、縮尺の大きいのやら小さいのやら、グーグルマップを何枚も印刷 して来たのだけど、ちゃんと辿り着けるかどうか分からない。最寄り駅から家に帰る時でさえしばしば迷う私だから。ほんとだったら真っ直ぐ行く道を、何も考 えずに左に曲がってしまう。左へ曲がる道は何本もあって、どれも同じように見えるし、曲がった後も同じような住宅地。だから気が付かないで迷子になってし まうのだ。
幾つかの駅で電車を乗り換えて、えっちらおっちら、キャリーバッグを抱えて、階段を昇りそしてまた降る。今、通り過ぎた駅はなんて名前だっただろう・・・。ああ、去年までは、私はこの駅で降りていたのだった。でも、もう、二度とこの駅で降りることはない。
冷房の効いた車内と違い、むっと熱い風が吹き抜ける地上の道を、ガラゴロ音を立てながら付いてくるキャリーの音を聞きながら歩く。ただひたすらガラゴロガラゴロ。
ずっとここの所、考えても益体もない繰り言を頭の中で繰り返してきたせいか、それともいつもの習性か。ただ、なんとなく。こんなにまっすぐ歩く はずはない・・・・と、いう勝手な判断に基づいて、またしても曲がるべきでないはずの道をつい右へ曲がってしまった。地図を回してみていてもなんのかいも ないのである。
入り口を入るとそこはガランとしたホールだった。置き捨てられた壊れかけた家具や、外れてしまった建具がそこかしこに立てかけてある。割れてしまったガ ラスの窓には外から板が打ち付けられていて、その隙間から細い日の光が漏れているだけなので薄暗い。足元には、たまに入り込む人達がそこここで、コンビニ の弁当を食べたのか、ビニール袋やプラスチックのトレイや潰した空き缶が散らばっていた。
病院によくあるカウンター式の受付、そしてその向こうに真っ直ぐ行く通路と右へ曲がる通路が伸びている。診療室のドアが等間隔で並んでいる。
私は落ちている物に躓かないように、足元を確かめながらそろそろと進んだ。キャリーバッグは、玄関のところに置いてきてしまった。それを引いて歩けるような床の状態じゃなかったから。
なにもないところで転ぶことが出来るのも私の才能。障害物がある時はよけいに・・・。まっすぐ伸びている通路に並ぶドアは壁と同じようなグレイ の合板のドアだった。いかにも病院の診察室。多分その向こうには机と診察用のベッドが同じようにならべられた部屋が並んでいるのだろうと想像させるよう な。突き当りの出口に小さく開けられた四角いガラス窓から外の白い光が差し込んでいる。
反対に右側はどうだろう。明かり取りになる窓もなく、並んでいるドアもそしてその向こう側も、ねっとりとその場所にうずくまっている闇の中に消えて行っている。
行きたくないのに、惹きつけられるように、私は右へ曲がってしまう。
小さい頃からの私の定番の夢はいつも同じ。
殺される夢。殺す夢。
たとえば、階段を転げ落ちて縁側のガラスに突っ込む夢。まぶたの上から血がしたたり、真っ赤になった世界の向こうから包丁を持った母がゆっくりと降りてくるのが見える。私の手首を切り取りに来る母が。
殺す夢はもっと悪い。鉈を振りかぶって打ち下ろす。何度も何度も何度も。私の心を埋め尽くすのは怒りだけ。してはいけない事をやっているのが分 かっているのに、背中を這い上がる、せり上がってくるような、締め付けるような何かに追いかけられるように。私は父の体に鉈を振り下ろす。
そして廃屋になってしまった病院の中の通路を歩いている夢。突き当たりにあるのは黒い大きな石の扉。その中に私を生きながら臼で轢き殺してくれ るあの人が待っている。顔を持たないあの人は、懐かしく、恐ろしく、そのゴツゴツと乾いた手でやさしく私の腕を引く。そうしてその大きな臼の中に私をそっ と押しやる。
私は臼の中からあの人が覗きこんでくるのを見上げる。微笑みを浮かべて嬉しそうに私を見下ろす愛しい男の顔を。そして臼の取手にかかった分厚い 手を。あの人が私の身体に、胸に、腹に静かにゆっくりと触れた時のように。容赦なくその手が臼を回すと、私はあの人を見上げたまま、ただ黙ってぽろぽろと 涙を流しながら足の先からすり潰されていくのだ。
どの夢も、痛みと苦しみとそして絞り上げられるような胸苦しさを残していく。もう二度と二度と絶対にあの扉を開けたくはないのに。私はいつもの様に右に曲がってしまう。暗い闇が広がる通路へ脚を踏み入れてしまう。自ら望んで。自ら進んで
突き当りの黒いドアを開けると、違う世界が広がっていた。ラブホテル特有の安っぽさの限りを尽くしている広い部屋大きなベッドの周りを取り囲む、幾何学模様の柄がくっきりと刻まれた壁。二人並んで座るソファの上に、とぐろを巻くいつもの鞭。
ソファの前のテーブルの上に広げられたパソコン。脱ぎ捨てた服は、たたまれてソファの背中にかけられている。彼のスーツはきちんとハンガーに掛けて吊るされている散らかっているものを無意識に拾ってしまう私せめてもの慰めのように並べてしまう私。
ベッドの上に居るのは私に違いない。
私は、セックスで喜びを感じた事がない。気持ちよさは、いつも、掴みどころがなく、ただ体の中をたゆたい。指の先まで拡がっては、身体の中心へ戻っていくだけ。そんな私の身体を、私の上に仁王立ちになっている男は、短いゴムの鞭でところかまわず打っていた。
その鞭は、自転車のタイヤのチューブに使うゴム板を2センチほどの幅に切ってあるゴムで出来ている。ホームセンターへ行くと一束280円で売られてい る。トラックの荷台の荷物が落ちないようにかけるためのゴムだ。そのゴムを適当な長さでくるくると巻き、一箇所をパンの袋の口を縛ってあるようなビニタイ でまとめて止め。もう一度そのビニタイで、止められた場所を二つ折りにして巻いてあるだけの鞭である。
そして、この鞭は、音があまりしない。多分バラ鞭のような構造になってはいても、短くくるくると巻かれているせいなのだろう。その代わり外すこ ともない。自分の手の延長線のように振った所へそのまま打ち付けられる。肉を打つバチッという音が弾けると、表皮の上を熱くて鋭い痛みが、ぱあっと拡がる 重さはないので、奥までは届かないが、続け様に打っていると重なっていく広がる痛みが共鳴しあうのが分かる。
私はその鞭の一振り一振りに、身体を跳ねさせながら、小さな悲鳴を上げながら、ベッドマットにしがみつくように爪を立てていた。背中にもお尻にも交差し肌を埋め尽くす痕が浮き上がっている。
「上を向け。仰向けになるんだ。」
男は冷たく言い放つ。私は、一言もなく、ただ上がっている息をつきながら身体を反転させた。手首の一つでも縛ってもらっていたらもっと違った展 開になっていたかもしれない男は。私を拘束するのを面倒がった。縛られた女は自分では動けない。それがまた面倒なのかもしれない。
仰向けになれば打つ場所は決まっている。横に流れて力ない胸と醜く段をつけた白いうねる腹と。彼は、ただ黙々と私の身体の上に腕を振り下ろす。さんざん打ち尽くされて、しびれるような熱さになっていた背中とは全く違う。新しい皮膚に新しい痛み。
歯を食いしばっても、声が漏れる。痛みが身体に刻み込まれていく。身体を捻り、悶えさせている私の足が緩んだ。
すると男は、その足の間の一度も打たれたことがない場所をめがけて鞭を振り下ろした。
叫び声を上げたことすら気が付かなかった。身体を縮め、熱く焼けるような痛みが拡がって消えて行くのをただ待っているだけしかできない。子供のように小さくなって、丸く小さなひとつの珠になって。消えてしまえたらどんなにかいいのに。
「ほら、足を開くんだよ。」
男は、自分の足でもどかしげに私の足を蹴り広げた。恐ろしさのせいで恥ずかしさなんて意識する暇もなかった。
「いや、痛い。」
なんとか足を閉じようとしても、膝の内側に入った男の足が容赦なく足を押さえつけている。
「ここ、打つぞ。」
「や・・・」
「何回我慢できる?」
男の中では、その柔らかい粘膜を再び打ち据える事は、すでに決まった事のようだった。
「何度だ?」
「じゅっ・・・五回。」
「十回だ。」
「やだっ・・五回・・。」
「十回だ。ほら、足を拡げないか。自分で数えるんだぞ。」
私は、魅入られたように震えながら足を開いた。少しずつためらいながら。男の足がその間に入り、閉じられないようにこじ入れられた。ヒュッ・・・。黒いゴムの塊が落ちてくるのが見える。私は、思わず目を瞑る。
ビュッ!!
焼け付くような痛みというのをご存知だろうか。日頃感じることのない、破裂するような衝撃による痛み。一瞬で弾けて皮膚の上を焼き尽くしていく。
「あああああっ!」
叫んだ時に吐き出した息を大急ぎでもう一度吸い込み、自らの身体を硬くしてその痛みをやり過ごそうとした。ドット汗が噴き出してくる。
「い、一回・・・。」
その痛みが治まらないうちに、次の鞭が噛み付いてきた。私は、のけぞって、その痛みを受け止める。
「ひぃやっ・・・二回・・・・。」
部屋の壁を意識していた感覚がどんどん薄れて、部屋が拡がっていく・・。闇が拡がっていく。外側に広がる意識と、身体の奥に縮んでいく想い。そ の間を切り裂く純粋な痛みに私は身体をのたうたせる。6回目を数えた頃だろうか、鞭と鞭の間隔途切れて、私は、目を開けることが出来た。逃げる事を許さな いかのように立ちふさがる男の身体。そして、見降ろしてくる何もかも受け入れてくれる優しい目。そして、珍しく勃ちあがったその身体から、先走りの滴が私 の上に滴った。
興奮している。
私を打って。この人は興奮している。私が悲鳴をあげ、痛みにもがき、その身体に浮かび上がる赤い縞模様を見て興奮している。白い闇が外側から縮 んできて世界を埋め尽くした。なにもかもが、今日のこの瞬間のために会ったような気がして、私は涙を吹きこぼして泣きながら叫んだ。
「じゅっ・・かー・・い。」
満ち足りた。完成した。許された。贖罪は果たされた。
気がつくと、私は古いビルが作る日陰に、キャリーバックを椅子にして座っていた。辺りを見回しても、さっき入っていたはずの廃屋の病院は見つからない。 何度も繰り返した、眠れない夜を埋め尽くした夢。恐ろしさに震えながら、汗びっしょりの身体を、どこもタオルケットの下から出ないように必死に身を縮めて いた。誰かが、その浮いたタオルの下にある私の足を掴むような気がして。
あの病院は、私の夢のなかだけにある。
汗が引くまで、ぼんやりと、アスファルトの上に日差しが作った影が動いていくのを眺めていた。少しずつ拡がり、なにもかもをその影のうちに取り 込んでいく。あの人の闇からもう私は解き放たれてしまった。もうあの人は、あの駅のマンションには住んでいない。もう私は、あの夢を懐かしむことはない。
終わったのだから。
弾みをつけて立ち上がると、腕時計を見た。大幅に遅刻してしまいそうな気がして、慌てて携帯を取り出す。「ただいま駅から歩いている途中なり。 お損なってごめん。」携帯を閉じると、ガラゴロと音を立てて重い荷物を引きながら、私はまた歩き出す。曲がるはずがなかったまっすぐな道へ戻るために。目 的地に辿り着くために。
そういえば、今日は、あのゴム鞭は置いてきてしまった。

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