私には性欲らしきものがない。セックスをする事は、苦痛だった。ただひとつ、興奮することといえば、目隠しをされ、うつぶせに縛り付けられて動けない男や 女を、鞭で叩くのが好きなのである。縛られて動けず、何をされるのか見ることも出来ない。そんな相手の恐怖や苦痛が、すべて私の自由になることが快感だっ た。
けれど、そんなことを、女に、お遊びでさせてくれる店などまったく無かった。だから、入会金が五万円、プレイ料金が一回三万円という、団地の真 ん中にある変わった風俗店の話を友達に聞かされた時、高いな・・・と、思いつつも、一体何をさせてくれるのやら、冷やかしに行ってみてもいいかもしれな い・・・と、思ったのだった。
そのお店は、聖蹟桜ヶ丘の駅からバスに乗って行ったところにあった。団地の真ん中にある風俗店なんて、どんなところなのか想像もつかなかったけ れど、何気なしにその入口をくぐってみると、あまりの意外さに、びっくりとしてしまった。そう、そこは、まるで図書館だった。しかも、一体どれほど広いの か分からないくらいに、通路の、両側へ書架が並べられた空間がどこまでも続いているのである。
中央ロビーに螺旋階段がある所を見ると、二階もあるのだろうけれど、一体この沢山の本は、ここで、どう云う役目を果たしているというのだろう。全く想像もつかなかった。
しかも、この店はプレイが出来るのは、入会金と料金を払った日ではなく、次回からだというのだ。こんな場所で、いったい、何をするのか。裏を返すのは、何のためなのか。何の説明もしない男に、逡巡もせずにあっさりと八万円も払った私は、どういう了見だったのだろう。
予約を入れた次の週は、よく晴れていた。同じバスで、同じ頃の時間帯に、同じ風俗店を訪ねる。初夏の陽射しが、団地を縁取る木々の葉をいっそう 濃く見せている。太陽は真上にあって、影を作らず、バスの停まったアスファルトの道路は、熱く焼けて、どこまでも明るい地面をひろげていた。
バスを降りてふと顔を上げると道路の反対側を、裾からレースを覗かせた小花模様のワンピースを着た少女が、通りの向こう側を踊るような足取りで 歩いていた。私は、びっくりしてその少女を見つめた。その少女は、私の、幼い頃にそっくりだったからである。いやいや、そっくりのはずはない。
私は、子供の頃には、いつも男の子のような格好をしていた。短い髪に、ポロシャツに、膝丈の半ズボン。その事で母をいつも嘆かせていたではない か。常に、男に負けないようにと肩意地を張り、生徒会長を務め、働くようになってからは、タイトスカートにハイヒール。色は黒か紺かベージュ。
その女の子は、レースのペチコートを履いているらしくて、ワンピースの裾はプリンセスラインを描いて膨らんでいた。パフスリーブの袖。えんじ色の小さな小花の散った淡い桃色のワンピース。そして、肩にくるくる と広がる巻き毛。あんな格好をしている子が私のはずはない。
しかし、その女の子には、明らかに見覚えがあった。私の脳裏には、私が膝に乗せて遊んだ、私とお揃いのフリルの服を着た人形の記憶までがはっきりと目に見えてくる。
するとその時、向こう側の垣根の影から、まるで待ち伏せをしていたように、背の高い男の影がぬっと現れた。私は、さっきよりも、もっと驚いた。 その男は、どう見ても、人間ではなかったからだ。狼のようなこわい灰色の毛が、肌の見えるところにはびっしりと生えている。まるでお伽話から抜け出て来た ような獣人だった。
そして、その男は、少女である私になにか話しかけていた。その声は、ここまでは届いてこない。そういえば、ほんとうに、なんの音もしなかった。 世界は、人っ子一人いなくて、みんな死に絶えたように、昼間の通りは、誰の人影も無く何の音もしない。風景は、私の目の前で、飴を引き伸ばすようにゆっく りと横に伸びていく。しらじらと日のあたった道路のぬくもりもそのままに。
獣人の差し出す手に、その半分くらいの背丈しか無い少女が手をするりと滑り込ませ、ふたりは並んで小道に入っていく。いけない! 付いて行っ ちゃだめ! 私は、必死になって叫ぶけれど、その声は、全く音とならず、私の動きはまるで水の中を泳ぐようにもどかしい。二人の後を追いかけて入った小道 の両側は、空も覆うように、両側に街路樹が生い茂っている細い脇道だった。暗くて二人の姿はよく見えなかった。
「追いかけても無駄よ。」
私の頭の中で誰かが言った。
「あなたは、彼女と話せない。」
どうして?だって、これから起きるあれを止めないと。止めれば、私は、あのままに、ピンクのワンピースの少女のままで、大人になれたのかもしれないじゃないの。クラスメートと恋をして、平凡な結婚をして・・・。
「あなたは、あなたに会って話すことはできない。他の何人ものあなたも、あなたには会って話せない。会えるのは、私だけ。話せるのも私だけ。」
他の私?
「そうよ。ほら・・・。」
鬱蒼と茂った木の影に10歳位の少女が屈んでいる。何をしているのだろう。その足元にはなにかが、もぞもぞと蠢いていた。虫?バッタ?後ろ足を もがれた生き物が。何匹も。何匹も。私が音無き悲鳴をあげると、屈んでいた少女は、ぱっと振り向いた。その顔は、もっと幼い私だった。ビー玉のような瞳が 私の胸を貫く。
私は、もう一度悲鳴をあげて、もう、ほとんど獣道のように、両脇から樹が怪しく迫ってくる小道を走り抜けた。道はどんどんと細くなり、枝がピシピシと私の頬を、腕を、激しく叩く。痛い。痛い。痛い。もう、叩かないで。
目の前の地面がなくなり、私は、急激に狭い家の木の階段を転げ落ちた。縁側のガラス戸にぶつかると、ガラスは割れて、キラキラと私の上に降って 来る。瞼の上を切った血が、目の中に流れ込んで、世界が真っ赤だ。だれか助けて。私の宙に伸ばした私の手は明らかに幼児のまるまるとした手だった。思うよ うに動かない。
階段を振り仰ぐと、鬼のような形相の母が、階段を降りてくるのが見える。手に包丁を握って、ゆっくりと、一段、一段、階段を降りてくる。
「私、死んだほうがよかった。あの獣に、首を絞められた時に、抵抗しないで死んだほうがよかった。」
「黙って。彼女に聞こえてしまう。あなたたちがいることが、彼女に分かってしまう。」
幾つもの声が重なって私の中で、世界は、グルグルと回った。
気が付くと、私は、今日尋ねるはずだった風俗店の中にいた。息を切らし、髪は乱れ、スカートの裾がめくれ上がっていた。慌ててみじまいをしなが ら、ぐるりと見回すと、突き当りのカウンターに、この間の男が立っていた。何も起きてはいないかのように、ひっそりと。私は、瞬きを繰り返し、それが現実 である事を確かめた。それから、男に近づこうと歩き始めた。私の足の下で、ハイヒールの踵がコツコツと鳴った。ふと立ち止まって、自分の膝をちらりと見た が、さっき転んだ時の膝の痛みはもう無かった。
「あの、私。」
「はい? いらっしゃいませ。お客様は二度目のご来店でございますね。ようこそいらっしゃいました。ご用件を承ります。」
私は、何かが間違っているような気がして、今、来た道を振り返ろうとした。頭を振るとその中に詰まっている割れたガラスのかけらが、チリチリと音をたてて、耳からこぼれ落ちてくる気がした。
しかし、そんな事は起こらなかった。正面の男は、ひっそりと屹立して私の返事を待っている。周囲に並んでいるのは、物言わぬ書架の列だけだ。
いつの間にか、日が傾いて、並ぶ書架が作る影が、私を捕まえるために足元に伸びて来るような錯覚に私は身震いした。あの薄暗い沢山の本の列の中 に、今、分け入ったら。私は、今の自分を取り戻せなくなってしまうかもしれない。私に取って代わろうとする私は、たくさんいるのだから。いや、それどころ か。この体の記憶は、いつも私の記憶なのだろうか。
「あの・・・『柴山雅俊の解離性障害―「うしろにだれかいる」の精神病理』と、言う本はありますか?」
私は、自分の口から飛び出した本の題名にびっくりした。一度も読んだことはない本の著者名まで、どうして覚えているのか。
「はい、ございます。」
男は、振り返って、当たり前の事のように、カウンターの後ろの棚からその本を取り出した。たくさんの書架の中に探しに行くこともなく。
「その本は差し上げます」
と、図書館の男がニコリと笑いながら言った。
「今、ここで、どうしても書き記しておきたいことがあるのですが、出来るでしょうか」
「はい、皆さん、そう、おっしゃいます」
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けれど、そんなことを、女に、お遊びでさせてくれる店などまったく無かった。だから、入会金が五万円、プレイ料金が一回三万円という、団地の真 ん中にある変わった風俗店の話を友達に聞かされた時、高いな・・・と、思いつつも、一体何をさせてくれるのやら、冷やかしに行ってみてもいいかもしれな い・・・と、思ったのだった。
そのお店は、聖蹟桜ヶ丘の駅からバスに乗って行ったところにあった。団地の真ん中にある風俗店なんて、どんなところなのか想像もつかなかったけ れど、何気なしにその入口をくぐってみると、あまりの意外さに、びっくりとしてしまった。そう、そこは、まるで図書館だった。しかも、一体どれほど広いの か分からないくらいに、通路の、両側へ書架が並べられた空間がどこまでも続いているのである。
中央ロビーに螺旋階段がある所を見ると、二階もあるのだろうけれど、一体この沢山の本は、ここで、どう云う役目を果たしているというのだろう。全く想像もつかなかった。
しかも、この店はプレイが出来るのは、入会金と料金を払った日ではなく、次回からだというのだ。こんな場所で、いったい、何をするのか。裏を返すのは、何のためなのか。何の説明もしない男に、逡巡もせずにあっさりと八万円も払った私は、どういう了見だったのだろう。
予約を入れた次の週は、よく晴れていた。同じバスで、同じ頃の時間帯に、同じ風俗店を訪ねる。初夏の陽射しが、団地を縁取る木々の葉をいっそう 濃く見せている。太陽は真上にあって、影を作らず、バスの停まったアスファルトの道路は、熱く焼けて、どこまでも明るい地面をひろげていた。
バスを降りてふと顔を上げると道路の反対側を、裾からレースを覗かせた小花模様のワンピースを着た少女が、通りの向こう側を踊るような足取りで 歩いていた。私は、びっくりしてその少女を見つめた。その少女は、私の、幼い頃にそっくりだったからである。いやいや、そっくりのはずはない。
私は、子供の頃には、いつも男の子のような格好をしていた。短い髪に、ポロシャツに、膝丈の半ズボン。その事で母をいつも嘆かせていたではない か。常に、男に負けないようにと肩意地を張り、生徒会長を務め、働くようになってからは、タイトスカートにハイヒール。色は黒か紺かベージュ。
その女の子は、レースのペチコートを履いているらしくて、ワンピースの裾はプリンセスラインを描いて膨らんでいた。パフスリーブの袖。えんじ色の小さな小花の散った淡い桃色のワンピース。そして、肩にくるくる と広がる巻き毛。あんな格好をしている子が私のはずはない。
しかし、その女の子には、明らかに見覚えがあった。私の脳裏には、私が膝に乗せて遊んだ、私とお揃いのフリルの服を着た人形の記憶までがはっきりと目に見えてくる。
するとその時、向こう側の垣根の影から、まるで待ち伏せをしていたように、背の高い男の影がぬっと現れた。私は、さっきよりも、もっと驚いた。 その男は、どう見ても、人間ではなかったからだ。狼のようなこわい灰色の毛が、肌の見えるところにはびっしりと生えている。まるでお伽話から抜け出て来た ような獣人だった。
そして、その男は、少女である私になにか話しかけていた。その声は、ここまでは届いてこない。そういえば、ほんとうに、なんの音もしなかった。 世界は、人っ子一人いなくて、みんな死に絶えたように、昼間の通りは、誰の人影も無く何の音もしない。風景は、私の目の前で、飴を引き伸ばすようにゆっく りと横に伸びていく。しらじらと日のあたった道路のぬくもりもそのままに。
獣人の差し出す手に、その半分くらいの背丈しか無い少女が手をするりと滑り込ませ、ふたりは並んで小道に入っていく。いけない! 付いて行っ ちゃだめ! 私は、必死になって叫ぶけれど、その声は、全く音とならず、私の動きはまるで水の中を泳ぐようにもどかしい。二人の後を追いかけて入った小道 の両側は、空も覆うように、両側に街路樹が生い茂っている細い脇道だった。暗くて二人の姿はよく見えなかった。
「追いかけても無駄よ。」
私の頭の中で誰かが言った。
「あなたは、彼女と話せない。」
どうして?だって、これから起きるあれを止めないと。止めれば、私は、あのままに、ピンクのワンピースの少女のままで、大人になれたのかもしれないじゃないの。クラスメートと恋をして、平凡な結婚をして・・・。
「あなたは、あなたに会って話すことはできない。他の何人ものあなたも、あなたには会って話せない。会えるのは、私だけ。話せるのも私だけ。」
他の私?
「そうよ。ほら・・・。」
鬱蒼と茂った木の影に10歳位の少女が屈んでいる。何をしているのだろう。その足元にはなにかが、もぞもぞと蠢いていた。虫?バッタ?後ろ足を もがれた生き物が。何匹も。何匹も。私が音無き悲鳴をあげると、屈んでいた少女は、ぱっと振り向いた。その顔は、もっと幼い私だった。ビー玉のような瞳が 私の胸を貫く。
私は、もう一度悲鳴をあげて、もう、ほとんど獣道のように、両脇から樹が怪しく迫ってくる小道を走り抜けた。道はどんどんと細くなり、枝がピシピシと私の頬を、腕を、激しく叩く。痛い。痛い。痛い。もう、叩かないで。
目の前の地面がなくなり、私は、急激に狭い家の木の階段を転げ落ちた。縁側のガラス戸にぶつかると、ガラスは割れて、キラキラと私の上に降って 来る。瞼の上を切った血が、目の中に流れ込んで、世界が真っ赤だ。だれか助けて。私の宙に伸ばした私の手は明らかに幼児のまるまるとした手だった。思うよ うに動かない。
階段を振り仰ぐと、鬼のような形相の母が、階段を降りてくるのが見える。手に包丁を握って、ゆっくりと、一段、一段、階段を降りてくる。
「私、死んだほうがよかった。あの獣に、首を絞められた時に、抵抗しないで死んだほうがよかった。」
「黙って。彼女に聞こえてしまう。あなたたちがいることが、彼女に分かってしまう。」
幾つもの声が重なって私の中で、世界は、グルグルと回った。
気が付くと、私は、今日尋ねるはずだった風俗店の中にいた。息を切らし、髪は乱れ、スカートの裾がめくれ上がっていた。慌ててみじまいをしなが ら、ぐるりと見回すと、突き当りのカウンターに、この間の男が立っていた。何も起きてはいないかのように、ひっそりと。私は、瞬きを繰り返し、それが現実 である事を確かめた。それから、男に近づこうと歩き始めた。私の足の下で、ハイヒールの踵がコツコツと鳴った。ふと立ち止まって、自分の膝をちらりと見た が、さっき転んだ時の膝の痛みはもう無かった。
「あの、私。」
「はい? いらっしゃいませ。お客様は二度目のご来店でございますね。ようこそいらっしゃいました。ご用件を承ります。」
私は、何かが間違っているような気がして、今、来た道を振り返ろうとした。頭を振るとその中に詰まっている割れたガラスのかけらが、チリチリと音をたてて、耳からこぼれ落ちてくる気がした。
しかし、そんな事は起こらなかった。正面の男は、ひっそりと屹立して私の返事を待っている。周囲に並んでいるのは、物言わぬ書架の列だけだ。
いつの間にか、日が傾いて、並ぶ書架が作る影が、私を捕まえるために足元に伸びて来るような錯覚に私は身震いした。あの薄暗い沢山の本の列の中 に、今、分け入ったら。私は、今の自分を取り戻せなくなってしまうかもしれない。私に取って代わろうとする私は、たくさんいるのだから。いや、それどころ か。この体の記憶は、いつも私の記憶なのだろうか。
「あの・・・『柴山雅俊の解離性障害―「うしろにだれかいる」の精神病理』と、言う本はありますか?」
私は、自分の口から飛び出した本の題名にびっくりした。一度も読んだことはない本の著者名まで、どうして覚えているのか。
「はい、ございます。」
男は、振り返って、当たり前の事のように、カウンターの後ろの棚からその本を取り出した。たくさんの書架の中に探しに行くこともなく。
「その本は差し上げます」
と、図書館の男がニコリと笑いながら言った。
「今、ここで、どうしても書き記しておきたいことがあるのですが、出来るでしょうか」
「はい、皆さん、そう、おっしゃいます」

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