私は、男の手首が好きだった。手首だけになったそれは、優しく私の頬を撫でるだろう。力強くしなやかな指とすべすべとした甲。掌にあるホクロが愛らしい。暖かくぬくもりを分けてくれる優しい手。
それに比べて、男の身体はどうだろう。私の思い通りには決してならない。重くて、ものを言ったり、動きまわったり、その上、食べたり、排泄したり。生きているということはなぜ、こんなにもうっとおしいのかしら。理屈っぽくて、口うるさくて、ちっとも美しくない。だから、切り落としてしまおうと思ったのだった。
けれど、それを承知してくれる男はなかなかいない。私の職業は、女王様だったから、指の一本や二本、いちもつでさえも、捧げてくれるという下僕は、いないでもなかったけれど、でも「手首をあげましょう」と、いう男はなかなかいなかった。例えいても、それは、ちょっとした嬉しがらせの一種でしかなかったり、そんなつもりの遊びだったりして、いざ、真剣に手首を切り落とす時になると、怖気づいて、大慌てに逃げ出す者ばかりだった。
だとしたら、薬を飲ませて、朦朧としているうちに縛り付け、泣いたり喚いたりしていても構わずに切り落としてしまうというのはどうなのだろう。
切る時に使うのは電動ノコギリがいい。キーンというあの耳に突き刺さる響きが、男の恐怖を煽り、冷や汗を搾り取ることができる。すっぱいような匂いの恐怖の汗と、言葉にならず、うろたえたように口をぱくぱくさせる様が面白くないこともない。ほんとうは、私のために、覚悟を決めて、自らその手首を捧げてくれるのなら、喜びは倍増し、雲の上に乗るように幸せな心持ちになるだろうに。
そう思って、よく考えて、目当ての手首の持ち主を口説いてから、その口の中に薬を放り込んで、身体をベッドに縛り付けている時に、ホテルのドアが激しくうち叩かれた。男を縛り付けるのに熱中していた私が、びっくりして、立ちすくんでいるうちに、ドアは蹴り破られて、三人の男達がなだれ込んで来た。それは、私の勤めているSMクラブのオーナーと、仕事のためにホテルにいる間車で近くに控えているクラブの従業員の男。それに、私の家のために働いていた弁護士の、一人息子だった。
私がまだ、セーラー服を着ているような娘の頃からずっと、我が家に出入りしていたその息子は、幽霊のようにやつれた青い顔をして、激しく私に詰め寄ってきた。
「マナカさん、どうしてあなたは・・・。切り落とした手首は、もう、あなたの思っているようなものでは無くなってしまう事を知らない訳ではないでしょう?固くなり、干からびて、腐っていく。肉が腐っていく時のあの匂い。あなたには決して耐えられないでしょうに。」
この弁護士の息子は、ずっと、私のことを見張っていたのだろうか。私が、父親と不仲になり、家を飛び出して、今の仕事についてからもずっと。私が、自分のしたい事。夢見ていた事を諦めず、いつか、私が、男の手首を切り落とす算段をする事を予見していたに違いない。
どんな時でも、私の父は、私を思い通りに動かそうと、あらゆる手を打ってくる。どんなに遠くに逃げおおせたつもりでいても、それは、父の作った檻の床が、恐ろしく広く、どこまでも鉄条網の張り巡らされた塀が続いているだけだったのだから。
男の手首を切り落とそうとした女王様の噂は、あっという間に業界の端から端まで、伝わってしまったに違いない。私は頸になり、天職のように思っていた仕事を取り上げられて、父の選んだ男と結婚して海外に移り住むか、ほとぼりがさめるまで「そんな噂が辿り着かないどこか田舎」にしばらく隠遁しているように強く言い渡されてしまった。
なんといっても、今度のことは、ひとつ間違えば警察沙汰。騙された、殺されかけたと喚き立てる私の愛しい手首の持ち主を黙らせる莫大な示談金を払ったのも父ならば、迷惑料を要求する店のオーナーへ引導を渡したのも父なのだ。そのお金と人脈の力を持ってして、私に手首をくれる人を見つけ出してくれるほどに、私を理解してくれたなら、私も家を出る必要もなかったのに。
父の選んだ男は、私の大嫌いな上流社会のステレオタイプの男でしかなく、結婚すれば、せっせと私の人生を灰色に塗り尽くすに違いなかった。私は、「都会を離れる」という選択肢をなくなく受け入れるしかなかった。父の言うとおりにするのだから、私の気持ちも少しは組んでくれなくては。私は、知り合いの伝手を辿り、もう二度と、決して、誰かの手を切り落としたりしないという、誓紙とともに、せめてもの、その身体の奥から湧き出ては吹き零れる禍々しい欲求を紛らわせてくれる仕事を取り戻した。
私は、どこか、自分だけの空へ飛び立つ翼を見つけるまで、普通の女王様のふりをして、できるだけ人から離れていようと思った。誰とも深く付き合わず、誰にも心を打ち明けず、さも「仕事で女王様をやっています」というなりをして、私の欲望を揺り動かすスイッチを入れるような、そんな同じような香りをさせる人達や、それ故の悲しみを滲ませる人たちからは出来るだけ離れて。普通の人間のふりができるように、口を閉じて、仮面を被って。優等生の高校生時代に培ったもう一人の私。
そうして、だから、私は山梨の、このクラブに女王様として、世過ぎをしているのである。毎週、週末には、例の我が家の弁護士の息子が、客となって、私が、新しく怪しい目論見を捻り出していないか、確かめに来るのだった。
男が私を買うお金を出しているのが、ほんとうは父なのか、それとも弁護士の息子本人なのか分からなかったけれど、その息子が週末に泊まりに来るのを受け入れている限り、私は、そのSMクラブの中の取り決め通り、旅館の客室で過ごすことができて、毎日、自分だけの時間を持てるから都合が良かったのだった。
それに、その男は、この場所で、手首を恋い慕う、私の本当の気持ちを知っているただ一人の男なのだから、一緒に過ごす時間を持つことに否やはなかった。
弁護士の息子は、私の部屋に来ると、その少し灰色の混じった薄い茶色い悲しそうな瞳で私をじっと見つめた。この男はまだ、私のことが少しばかり好きなのかもしれない。私が少女の頃からずっと変わらずに。
「私は、男の手首が好きなだけなのよ。」
「ええ・・・・・・、分かっていますよ。マナカさん。」
そう言うと男は服を脱ぎ、それから、左の肩に義手を留めつけてあるベルトを外して、父が大枚をはたいて作らせた、その爪の一枚一枚まで本物そっくりの義手を外して、私に握らせてくれる。それから、風呂にお湯を張り、片腕のまま、湯を使うのだ。
湯から上がってきた男は、片方だけ残っている右手で、私が、冷たい義手に頬ずりをしながら流す涙を拭おうとする。そんな時、私は思わず、もう一本の木の切り株のように先が丸くなった腕に口づけせずにはいられない。
なんといっても、その腕は、私が、生涯でただ一度だけ、我がものとすることができたあの血の匂いがむせ返るような寝床で掻き抱いた手首の、生えていた腕なのだから。
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それに比べて、男の身体はどうだろう。私の思い通りには決してならない。重くて、ものを言ったり、動きまわったり、その上、食べたり、排泄したり。生きているということはなぜ、こんなにもうっとおしいのかしら。理屈っぽくて、口うるさくて、ちっとも美しくない。だから、切り落としてしまおうと思ったのだった。
けれど、それを承知してくれる男はなかなかいない。私の職業は、女王様だったから、指の一本や二本、いちもつでさえも、捧げてくれるという下僕は、いないでもなかったけれど、でも「手首をあげましょう」と、いう男はなかなかいなかった。例えいても、それは、ちょっとした嬉しがらせの一種でしかなかったり、そんなつもりの遊びだったりして、いざ、真剣に手首を切り落とす時になると、怖気づいて、大慌てに逃げ出す者ばかりだった。
だとしたら、薬を飲ませて、朦朧としているうちに縛り付け、泣いたり喚いたりしていても構わずに切り落としてしまうというのはどうなのだろう。
切る時に使うのは電動ノコギリがいい。キーンというあの耳に突き刺さる響きが、男の恐怖を煽り、冷や汗を搾り取ることができる。すっぱいような匂いの恐怖の汗と、言葉にならず、うろたえたように口をぱくぱくさせる様が面白くないこともない。ほんとうは、私のために、覚悟を決めて、自らその手首を捧げてくれるのなら、喜びは倍増し、雲の上に乗るように幸せな心持ちになるだろうに。
そう思って、よく考えて、目当ての手首の持ち主を口説いてから、その口の中に薬を放り込んで、身体をベッドに縛り付けている時に、ホテルのドアが激しくうち叩かれた。男を縛り付けるのに熱中していた私が、びっくりして、立ちすくんでいるうちに、ドアは蹴り破られて、三人の男達がなだれ込んで来た。それは、私の勤めているSMクラブのオーナーと、仕事のためにホテルにいる間車で近くに控えているクラブの従業員の男。それに、私の家のために働いていた弁護士の、一人息子だった。
私がまだ、セーラー服を着ているような娘の頃からずっと、我が家に出入りしていたその息子は、幽霊のようにやつれた青い顔をして、激しく私に詰め寄ってきた。
「マナカさん、どうしてあなたは・・・。切り落とした手首は、もう、あなたの思っているようなものでは無くなってしまう事を知らない訳ではないでしょう?固くなり、干からびて、腐っていく。肉が腐っていく時のあの匂い。あなたには決して耐えられないでしょうに。」
この弁護士の息子は、ずっと、私のことを見張っていたのだろうか。私が、父親と不仲になり、家を飛び出して、今の仕事についてからもずっと。私が、自分のしたい事。夢見ていた事を諦めず、いつか、私が、男の手首を切り落とす算段をする事を予見していたに違いない。
どんな時でも、私の父は、私を思い通りに動かそうと、あらゆる手を打ってくる。どんなに遠くに逃げおおせたつもりでいても、それは、父の作った檻の床が、恐ろしく広く、どこまでも鉄条網の張り巡らされた塀が続いているだけだったのだから。
男の手首を切り落とそうとした女王様の噂は、あっという間に業界の端から端まで、伝わってしまったに違いない。私は頸になり、天職のように思っていた仕事を取り上げられて、父の選んだ男と結婚して海外に移り住むか、ほとぼりがさめるまで「そんな噂が辿り着かないどこか田舎」にしばらく隠遁しているように強く言い渡されてしまった。
なんといっても、今度のことは、ひとつ間違えば警察沙汰。騙された、殺されかけたと喚き立てる私の愛しい手首の持ち主を黙らせる莫大な示談金を払ったのも父ならば、迷惑料を要求する店のオーナーへ引導を渡したのも父なのだ。そのお金と人脈の力を持ってして、私に手首をくれる人を見つけ出してくれるほどに、私を理解してくれたなら、私も家を出る必要もなかったのに。
父の選んだ男は、私の大嫌いな上流社会のステレオタイプの男でしかなく、結婚すれば、せっせと私の人生を灰色に塗り尽くすに違いなかった。私は、「都会を離れる」という選択肢をなくなく受け入れるしかなかった。父の言うとおりにするのだから、私の気持ちも少しは組んでくれなくては。私は、知り合いの伝手を辿り、もう二度と、決して、誰かの手を切り落としたりしないという、誓紙とともに、せめてもの、その身体の奥から湧き出ては吹き零れる禍々しい欲求を紛らわせてくれる仕事を取り戻した。
私は、どこか、自分だけの空へ飛び立つ翼を見つけるまで、普通の女王様のふりをして、できるだけ人から離れていようと思った。誰とも深く付き合わず、誰にも心を打ち明けず、さも「仕事で女王様をやっています」というなりをして、私の欲望を揺り動かすスイッチを入れるような、そんな同じような香りをさせる人達や、それ故の悲しみを滲ませる人たちからは出来るだけ離れて。普通の人間のふりができるように、口を閉じて、仮面を被って。優等生の高校生時代に培ったもう一人の私。
そうして、だから、私は山梨の、このクラブに女王様として、世過ぎをしているのである。毎週、週末には、例の我が家の弁護士の息子が、客となって、私が、新しく怪しい目論見を捻り出していないか、確かめに来るのだった。
男が私を買うお金を出しているのが、ほんとうは父なのか、それとも弁護士の息子本人なのか分からなかったけれど、その息子が週末に泊まりに来るのを受け入れている限り、私は、そのSMクラブの中の取り決め通り、旅館の客室で過ごすことができて、毎日、自分だけの時間を持てるから都合が良かったのだった。
それに、その男は、この場所で、手首を恋い慕う、私の本当の気持ちを知っているただ一人の男なのだから、一緒に過ごす時間を持つことに否やはなかった。
弁護士の息子は、私の部屋に来ると、その少し灰色の混じった薄い茶色い悲しそうな瞳で私をじっと見つめた。この男はまだ、私のことが少しばかり好きなのかもしれない。私が少女の頃からずっと変わらずに。
「私は、男の手首が好きなだけなのよ。」
「ええ・・・・・・、分かっていますよ。マナカさん。」
そう言うと男は服を脱ぎ、それから、左の肩に義手を留めつけてあるベルトを外して、父が大枚をはたいて作らせた、その爪の一枚一枚まで本物そっくりの義手を外して、私に握らせてくれる。それから、風呂にお湯を張り、片腕のまま、湯を使うのだ。
湯から上がってきた男は、片方だけ残っている右手で、私が、冷たい義手に頬ずりをしながら流す涙を拭おうとする。そんな時、私は思わず、もう一本の木の切り株のように先が丸くなった腕に口づけせずにはいられない。
なんといっても、その腕は、私が、生涯でただ一度だけ、我がものとすることができたあの血の匂いがむせ返るような寝床で掻き抱いた手首の、生えていた腕なのだから。

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